『エール』の時代の作曲家たち③ 江文也と《生蕃四歌曲集》part.2

江文也(1910~1983)は、日本統治下の台湾に生まれ、幼少期に福建省の厦門(アモイ)に移り、13歳まで過ごしました。中学からは長野県上田市で学び、武蔵野高等工業学校に通うかたわら、東京音楽学校選科で声楽と作曲を学ぶと、山田耕筰や橋本国彦らとも関わりを持ちながら音楽家の道を進みました。第一回、第二回の音楽コンクール(日本音楽コンクールの前身)では声楽部門で、第三回から第六回の音楽コンクールでは作曲部門で入賞、入選を続け、多方面で音楽の才能を開花させていきます。国際的にはチェレプニン・コレクションとして《生蕃四歌曲集》を含む6つの楽譜がドイツ、アメリカ、中国、フランス等でも出版され、1936年ベルリンオリンピック芸術部門では山田耕筰らをおしのけて入選を果たしました。映画音楽でも活躍し李香蘭主演『蘇州の夜』の音楽も担当しました。

声楽家としての江文也

1932年、武蔵野高等工業学校を卒業した江は、「卒業式の日にある楽器店に紹介して戴いて或るレコード会社へ声のテストを取って戴いた、そうしたら僕の声がレコードによく合うというので早速忙しい時局ものを吹き込ませられた…」と回想しています。江の歌によって1932年3月に山田耕筰作曲《肉弾三勇士の歌》を日本蓄音機商会(日本コロムビアの前身)から発売されていることから、この回想の中の「時局もの」というのはこのレコードのことであると思われます。

江は、山田耕筰作曲による《日本産業の歌》(北原白秋詩)、《沖の鴎に》(民謡)のほかにもレコーディングの仕事を多く残しています。今私がSiriuSとして日本コロムビアで活動させていただいていることと、なんとも言えないご縁を感じています。

また、声楽家としては「JOAKラヂオ歌劇」において《タンホイザー》の第三幕ヴォルフラムを担当し、藤原歌劇団第一回公演プッチーニ《ラ・ボエーム》ではショナールとして藤原義江らとも共演しました。

作曲家としての江文也

江は東京音楽学校選科時代、声楽に加えて1933年から作曲も併修しました。この年はちょうど橋本国彦が選科を教え始めた年と一致します。

唱歌創作を主戦場としていた東京音楽学校という場所にあって、モダニスティックな手法を積極的に研究した橋本国彦の存在は、はたして江にとってどのように映ったでしょうか。おそらくとても眩しく、心躍らせてくれる存在だったのだと思います。橋本は1930年の創設当時から新興作曲家連盟に属していましたが、それを追うように江は1934年に同連盟に迎えられました。

その後、ユーラシア主義(ヨーロッパの混迷した現状を打破するにはアジア、ユーラシアの力が必要である)を思想背景とするアレクサンドル・チェレプニンと出会い、他の新興作曲家連盟のメンバー同様、東洋の音楽の可能性を独自の方法で模索するようになりました。

ここでの江の独自性は、一つには彼が外地台湾出身であったこと。もう一つはバルトークへの親和性であると思います。チェレプニンの影響から多くの日本人作曲家が「日本的」素材を求めていきますが、江の視線はよりコスモポリタンなもので、日本、台湾、中国を包括する視野の広さを持っていました。

バルトークは民族主義の作曲家として知られていますが、彼のコンチェルトの作品群を紐解くとわかるように、彼の音楽の背景にはとても構造的な原理が存在しています。その背景にあるのは、ベートーヴェンへの傾倒です。20世紀の現代音楽が、古典的な構造原理を否定しようと躍起になっているのに対し、バルトークの音楽には民族的な素材を用いながらもベートーヴェン的な要素を多分に残しているのです。江はバルトークについて以下のように語っています。

「バルトックのような型の作曲家は単純な芸術的潔癖性を固辞しないようである。必要に応じては平然と妥協もすれば平然と妥協もすれば包括もするらしい。もっともより大きい精神にとっては、それは融通の利かない小規模でしかない」

流行の音楽技法ではなく、より「大きい精神」をもつ音楽。江の作品はピアノ、オーケストラ、声楽と様々なジャンルにわたっていますが、単にリズミカルな民族的響きがあるかと思えばロマンティックなメロディもあります。そこに流れているのは彼の情熱的で、大きくやさしい人間性だと思います。

《生蕃四歌曲集》

江は1936年にこの歌曲集を作曲します。この作品はチェレプニン・コレクションとして海外でも出版されたほか、「日独作品交換演奏会」(1937)において、カールスルーエ、ジュネーヴ、ベルリンでも演奏されました。台湾原住民の民謡によるこの歌曲集、特筆すべきはすべて歌詞はオノマトペであることです。しかし、まったく意味をなしていない言葉かというとそうではなく、自筆譜にはそれぞれのオノマトペに込められた意味が詩として書かれています。

⑴首祭りの宴

今想像するとかなりショッキングではありますが、通過儀礼として首狩りを習慣とした台湾原住民の、祝い歌です。バルトーク的な要素が色濃い、激しい民族的なリズムが特徴的です。時折バルトーク《Allegro Barbaro》を思わせる和音が現れます。

⑵恋慕の歌

叶わぬ恋の嘆きのようなメロディ。単純ながらロマンティックです。「作曲家の狙っている世界がはっきりしていればいるほど、彼の楽想もそれに比例して単純化していく」という江の作曲観があらわれた作品だと思います。

⑶野辺にて

牧歌的な音楽で、恋人を待つ黄昏時の歌という印象です。白鷺、ムカデ、太陽という亜熱帯の原始的な自然と自分を対峙することで、原始的な、しかしどこかモダニスティックな感性が生まれています。

⑷子守歌

わが子の眠りの世界を海にたとえた子守歌。暖かい夜風と温かい海。「静かに滑り行けいとしのわが子、大海原に出船せよ、いざ!鯨もいず、鬼もいず ゆらりゆらりといとしのわが子、静かに滑り行け」。否応なく私には江の人間的な温かみが感じとられる一曲です。

江は民族的素材について「田舎者であるより文化的」なものであると考えました。大きな視野をもって音楽をとらえた江の作品は単に民族主義的というよりもコスモポリタンで無国籍。彼にとっての音楽はどこまでも続く無限のイマジネーションの源泉であったのではないでしょうか。

 

『エール』の時代の作曲家たち④ につづく…

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