2019.9.8 シリーズ日本のうた《第一回》~こうしてうたは生まれた 福島明也バリトンリサイタル

私自身の演奏ではありませんが、師であるバリトン福島明也先生のリサイタルでナビゲーターを務めさせていただきます。

2019年9月8日(日)14:30開演(14:00開場)三春交流館(福島県田村郡三春町) まほらホール にて

一般3000円 高校生以下500円

にほんのうたをテーマとしたシリーズで、今回は唱歌・童謡のものがたりを中心にナビゲートさせていただきます。

資料用に「唱歌・童謡ものがたり(戦前)」と題した文章を作成いたしましたので、アップします。ご批判、訂正とうございましたらご指摘いただけますと幸いです。

 

唱歌・童謡ものがたり(戦前期)

初春の令月にして、気淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす

万葉集巻五、梅花の歌三十二首の序文の一節である。新元号「令和」。日本の古典が元号の出典となるのは画期的なことであるといわれている。典拠となったのは8世紀の歌人大伴旅人を中心とする梅花の宴の序文。正月に仲間を館(官舎)に招いての歌会で、梅をめでながら宴を楽しんでいる心情を詠んだものである。日本人は古来から、宮廷では歌会をたしなみ、また庶民は歌垣によって逢引、生命を育んできた。日本人の生活と歌とはとても近い関係にある。

和歌をはじめとする日本の歌は、本歌取りに代表されるように、古き歌を知って新しい創作に生かすことを美としている。

唱歌・童謡を創作した初期の詩人には江戸時代からの流れを汲む国学者も多く、そうした日本古来の歌作りを試みている作品も多い。若者たちからすると、唱歌・童謡はおじいいちゃん、おばあちゃん世代が歌ってくれる昔風の親しみのない歌というイメージもあるのかもしれない。しかし、文部科学省が発行する音楽科の学習指導要領をみてみると、現在、小学校では文部省唱歌が全学年を通じて17曲取り上げられ、中学校では「我が国で長く歌われ親しまれている歌曲」として〈早春賦〉〈夏の思い出〉〈赤とんぼ〉〈浜辺の歌〉など7曲が取り上げられている。

私は、現在都内の中学校で非常勤講師の職を得ているが、瀧廉太郎〈花〉などは、歌詞の古めかしさが障壁になることもなく、音楽の躍動感に楽しそうに歌う子供たちの姿にはっと驚かされる。古い歌の普遍的な魅力を楽しむ日本人の感性がそこにもあると思う。

温故知新——月並みではあるが、唱歌・童謡を歌い親しむとき、様々な意味でこの言葉を実感する。これまで、唱歌・童謡の歌とともに人生を歩まれて来た皆さまも、あまり親しみを持たずにこられた皆さまも、このりさいたるシリーズをきっかけとして、あらためて日本のうたに親しんでいただければ幸いである。

前置きが長くなったがシリーズ第一回の序として、唱歌・童謡の戦前期までの歴史を概観したい。今日のリサイタルで演奏される曲目については、曲目解説を参照していただきたい。

 

 

「唱歌」の言葉は明治以前からあった。平安時代以降、雅楽において器楽の譜を声で歌うことを「唱歌(ショーガ)」と呼んでいる。また、室町時代末期から江戸時代にかけては短い歌曲のことを同じく「唱歌(ショーガ)」と呼んでいた。

1972年(明治5年)の学制頒布において、欧米の教育制度にならいSchool Musicという意味での「唱歌(ショーカ)」が設定された。学制「下等小学教科」中には「唱歌当分之ヲ欠ク」と記され、科目として設定されたものの、実施はされていなかったことがわかる。欧米にならった唱歌教育の方法が確立されておらず、またその技術を持つ教師もいなかった。そのような状況を打開すべく1879年(明治12年)10月に文部省音楽取調掛(東京藝術大学音楽学部の前身)が設立された。アメリカ留学の際に音楽を学んだ伊沢修二がボストンの音楽教育家ルーサー・ホワイティング・メ―ソン(1828-1896)を御雇教師に招聘し、また宮内省雅楽寮の上真行、奥好義、辻則承、芝葛鎮らが助教となった。伊沢は「東西二洋の音楽を折衷して新曲を作ること」、「将来国楽を興すべき人物を要請すること」という理想を掲げた。

続いて世は——「板垣死すとも自由は死せじ」——自由民権運動の時代となる。自由民権運動・欧化思想と国粋主義の対立、政治的対立(主権在君、主権在民、主権在国会)や思想的混乱。朝鮮出兵(1884)、明治憲法制定(1889)、国会開設(1890)などもこの時期にあたる。学制頒布以降、小中学校の教科書は、文部省が出版したものと民間で出版されたものを文部省が調査して適当と思われるものを地方長官が任意に採択したものがあった。しかし、社会的混乱に対応して国は1886年(明治19年)4月に小学校令を公布し、文部省が直接統制できる形の教科書検定制度を確立した。

20世紀をむかえると、日本語に改革が起きる。言文一致運動である。話し言葉と書き言葉を一致させようという文学者たちの改革運動であり、先駆者の二葉亭四迷は代表作『浮雲』の創作において、落語家の語りを速記したといわれている。1892年(明治25年)伊沢修二編『小学唱歌』において言文一致唱歌の出現がみられるが、最も功績のあったのは田村虎蔵である。こどもには、こどもことばで、こどもの生活感情に合った唱歌を与えなければならないというのが彼の主張であり、これは後の三木露風、北原白秋、野口雨情らの詩人や山田耕筰らの作曲家の童謡観と相通ずるものである。田村の代表作に「まさかりかついだ金太郎」の《金太郎》がある。

1910年(明治43年)から文部省唱歌の時代である。きっかけとして、1902年(明治35年)の教科書疑獄事件(教科書会社と教科書採用担当者との間での収賄事件)があり、これに処する形で1903年(明治36年)政府は教科書国定の方針を確立した。国定とは、編集、発行などの権限を政府が持つことである。当初は全教科でこれを実施したのではなく、修身、日本歴史、地理、国語読本を国定とし、書方手本、算術、図画は文部省で教科書を出版したが、唱歌をふくむそれ以外の科目については小学校令(1886年)の内容が継続して適応された。1910年になると、書方手本、算術、図画と同じく、国定ではないが文部省編纂による唱歌集が発行されはじめる。これには、田村虎蔵一派のいわゆる言文一致唱歌に対して、東京音楽学校を中心とする一派の人々が「唱歌の気品を害する」として批判し、「気品の高い唱歌」を作ろうという理念があったが、教科書国定の議論を背景とすることから、国民思想統一の一役も期待されていた。1910年から1935年(昭和10年)まで、4つの唱歌集が発行された。

日本軍が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が開戦した1941年(昭和16年)、国民学校令が実施されると、すべての教科書は国定に統一され、それ以外のものを教科書で使うことはできなくなった。文部省唱歌の一部のほか、祝日大祭日唱歌(君が代、勅語奉答、一月一日、原始祭、紀元節、神嘗祭、天長節、新嘗祭)の曲目が歌われた。

 

 

話は前後するが、こうした戦前の唱歌の歴史の流れの中から生まれ、独自の進化をなしていったのが童謡である。

戦前の童謡は以下の三つに大別される。

 

・古から伝わるわらべうた

・唱歌の中の比較的優しい歌詞のもの(いわゆる言文一致唱歌)

・大正期に勃興した創作童謡

 

初期の文部省唱歌集『尋常小学唱歌』が刊行し終わった大正初期から、教育界全体に自由主義の主張がなされるようになった。また、一方で20世紀初頭にドイツで起こった芸術教育思潮が紹介されて依頼、小学校の文芸・美術・音楽等の芸術教育方面に活発な運動が展開されるようになった。子供の関心・感動を中心とした教育運動、その一つとして現れたのが童謡の流行であった。

童謡運動の作品発表の場は、主にこども向けの雑誌上で行われた。そうした雑誌は、『子供之友』『少女号』『赤い鳥』『金の船』『童話』『コドモノクニ』と枚挙にいとまがないが、これらの多くは新作の童謡とその楽譜を掲載し、知識階級の家庭や自由教育の学校教室に受け要られていった。

鈴木三重吉が主宰し、1918年(大正7年)に童話と童謡を創作する最初の文学運動として創刊されたた『赤い鳥』の存在は大きい。主宰の鈴木は、唱歌の歌詞が教化的文語脈の生硬で非芸術的なものであったのに対して、児童性を尊重した口語脈の芸術的な歌を民間の詩人の手で作りだすのが目的とした。北原白秋、西条八十、三木露風などの鈴木からの影響を受け、童謡を創作し『赤い鳥』発表し、その後の童謡創作のきっかけとなった。

当時の詩壇には二種類の文学的背景があるといえる。一つは上田敏『海潮音』(1905年)うや永井荷風『珊瑚集』(1913年)等の西欧詩の移植導入がもたらした象徴詩調の系譜であり、北原白秋、三木露風、西条八十などがこれにあたる。もう一つは、西欧詩の移入に対して日本古来の感情の表現を目指した民謡詩の系譜で野口雨情や島木赤彦らがいる。いずれにしても、北原や西条にみられる近代生活の中でのこどもたちの感情や、野口にみられる民謡やわらべうたの伝統的な自然の中での感傷世界は、それまでの固い学校唱歌とは明らかな違いをなしていると言える。

三木は「童謡をつくることも自分をうたうことであり、天真のみずみずしい感覚と想像とを易しい言葉で歌う詩である。」といい、野口は「永遠に滅びない児童性をもっているもので、大人の胸にも子供の頃の懐かしい心持がわいてくるべきもので、しかも言葉の長子が音楽的にも優れていて、歌い踊れるものがまことの童謡だ。」と語っているように、こども感性や感動を一義として創作をしている。

これらの童謡創作のきっかけが、ドイツの芸術教育思潮を含む、20世紀初頭の新自由主義教育を背景としているのはとても興味深い。というのは、こうした童謡の存在が日本独自のいわゆる「芸術歌曲」を形作るきっかけとなっているように思われるからである。

山田耕筰は『童謡百曲集』について、以下のように語っている。

 

真に子供の核心に触れた芸術的童謡、たとえ児童が完全に理解し得る面は狭いにしても、児童は児童なりの直観によって、或程度の深さまでその芸術的内容をかなり的確に感知することが出来るにちがいありません。

 

山田耕筰に至って、童謡は芸術作品であることを志向されるようになった。「芸術」とは一体なにかということを考えれば際限がない。しかし、少なくとも、日本のうたが明治期にはじまった音楽取調掛を中心とした唱歌創作から、感性・感動を伴う「芸術」的な創作に発展していく様子を、戦前の唱歌・童謡のものがたりから読み取ることができるのではないだろうか。