田中俊太郎です。

声楽家(バリトン)として歌曲、オペラ、宗教作品、ミュージカル、合唱指導、声楽指導を専門のフィールドとして活動しております。
日本の歌の奥深さ、面白さを伝えてけるよう活動してまいります。

このホームページは、私自身の活動のお知らせや、ちょっとした勉強の成果発表の場として活用していこうと思っております。毎日更新!というような感じはなかなか難しいですが、たまにのぞきに来ていただけると嬉しいです。

FacebookTwitterInstagramも細々とやっています。

 

YouTubeチャンネル開設

少し前にYouTubeチャンネルを開設しました。

ゆくゆくは音楽にまつわるコンテンツを作りたいなぁと思っているのですが、まだ機材も技術も伴っていないため、ひとまず簡単なお散歩動画を作りつつ、動画制作の勉強をしていこうと思います。

動画撮影には色々とルールもあり、YouTubeは他のSNSより少し難しそう…..。ただでさえSNS音痴な私ですが、チャンネル登録、お手柔らかなコメント、アドバイスよろしくお願い致します!!!

母校の小学校に行ってみた↓↓↓

秋のお散歩↓↓↓

『エール』の時代の作曲家たち⑥ 松平頼則と《南部民謡集》

『エール』の時代の若手作曲家たちは、ヨーロッパの新古典主義に呼応して自分たちにとっての「古典」とは何かを追い求めていきました。

松平頼則(まつだいら よりつね)は初期においては民謡に、そしてある時期から雅楽に自らの「古典」を見出し、創作の素材にしていきます。そんな松平が東北民謡に素材を求めた《南部民謡集》をご紹介したいと思います。

松平頼則(1907~2001)は東京小石川に常陸府中藩の流れをくむ松平頼孝(よりなり)子爵と、明治天皇の侍従長を務めた侯爵徳大寺実則(とくだいじさねつね)の四女治子(はるこ)の長男として生まれました。

父頼孝は宮内省の狩猟官に任ぜられ、聴講生として東京帝国大学理科大学動物学科で学び、日本鳥類学会の設立時に評議員としても名を連ねました。頼孝は小石川の邸宅内に鳥類研究のための標本館を建て、図鑑制作のために生物画家小林重三(こばやし しげかず)を雇いました。

小林は日本三大鳥類図鑑と称される3つの図鑑を残しています。内気な松平頼則少年は、小林の「デッサンは、とても大切なんですよ」と話す仕事に興味を示し、小林の絵がデッサンから色づき、やがて作品へと変わっていく様を非常に楽しみにしていました。後に松平は、それが「作曲生活と密接に意識的に繋がっているのじゃないか」とも話しています。

生物画家が生物を見る眼差し——その緻密で性格な素材へのまなざしは、後に松平が日本の「古典」の素材を見出し観察し、作品化していくその態度の中に現れていきます。

当時からフランス語教育が盛んであった暁星中学を卒業した松平は、慶応大学仏文科に進学しました。その時期に来日し、同時代の多くの作曲家に影響を与えることになる演奏会シリーズがありました。

フランス人ピアニスト、アンリ・ジル=マルシェックス。

帝国ホテルでの連続演奏会において、彼は1500年代の楽曲から、バッハなどバロック時代、モーツァルト、ベートーヴェンなどの古典派時代、ショパン、シューマンなどのロマン派時代、そしてストラヴィンスキーやフランス六人組などの現代音楽まで、計39名、93曲の作品を演奏しました。ヨーロッパの一流演奏家によるこうした通史的な演奏会は、多くの日本人に衝撃を与え、日本人作曲家にとっての歴史的立場を批判的に意識させるきっかけともなりました。

松平はこうした刺激もあり、慶応仏文科に一旦は入学しましたが、東京高等音楽院(現 国立音楽大学)に通うなど、音楽への情熱を燃やし始めます。1931年のジル=マルシェックス2回目の来日の際には直接レッスンを受けるほどでした。

松平はこの時期、パリ音楽院に留学経験のある小松耕輔や東京音楽学校に招聘されいたハインリヒ・ヴェルクマイスターやチャールズ・ラウトルップなど、当時日本で考えられる一流の指導者たちの薫陶を受けました。

音楽家として歩み始めたこの時期の松平の特筆すべき功績として、翻訳家としての活動があげられます。

暁星中学、慶応仏文科と進んだ松平はその語学力を生かし、海外の最新の音楽論文を翻訳し、『音楽新潮』等の雑誌で紹介していきます。1929年には同紙上にフランス人音楽学者・批評家のポール・ランドルミー著“Le déclin de l’impressionisme ”を翻訳し、「印象主義の衰頽」として紹介しました。ランドルミーは独自の音楽史観のもとドビュッシーを過去のものと批判し、新たな創作に乗り出そうとするフランス六人組の技法を紹介しました。この中で、ランドルミーは六人組の最も特徴的な技法を、ポリトナリテ(複調:同時に2つの調を重ねて奏でる作曲技法)にあると説いています。

ランドルミーのこの論文は1930年代の松平の作曲の指針となりました。

この翻訳当時は、日本人作曲家たちは日本にドビュッシーの音楽から影響を受けて間もない頃でした。そうした時期において、松平が翻訳したこの論文の先進性はいかほどのものだったでしょうか。むしろ、ほとんどの音楽家はその内容を理解することは難しかったかもしれません。

松平のこうしたヨーロッパ最新事情へのアンテナの鋭さは、戦後、彼が現代音楽作曲家として世界的な活躍をしていく上でも欠かせない要素だと思われます。

そんな最中、松平が最初に出会った「古典」。それは南部民謡でした。

松平は、民謡研究者、武田忠一郎が採譜した東北民謡の音符にピアノ伴奏を付加する形で《南部民謡集第一集》(1928-37)、《南部民謡集第二集》(1938)の二つの曲集を発表しました。

第一集はチェレプニン・コレクションとして海外でも出版された経歴を持ちます。また作曲年代も広いことから松平の作曲スタイルの変遷をたどることができる曲集といえます。

《南部民謡集第一集》は〈牛追唄第1〉〈子守唄〉〈牛追唄第2〉〈田植唄〉〈刈上げ唄〉〈ソンデコ〉〈盆踊り〉の7つの作品からなる歌曲集です。

第1曲《牛追唄第一》、ドビュッシーからの影響がみられ、松平自身も冒頭でみられる増4度音程を「ドビュッシーの花粉にまみれていた私にとって自然な選択だった」と語っています。続く第2曲〈牛追唄第二〉もドビュッシー的な色合いの強い音がちりばめられています。

第5曲〈刈上げ唄〉、第6曲〈ソンデコ〉は、松平が自身の著作『近代和声学』の中で、ダリウス・ミヨー(フランス六人組の一人)の書法として解説している半音階的な技法が駆使されています。

第7曲〈ソンデコ〉では、ピアノ伴奏の右手は黒鍵のみ、左手は白鍵のみの音による典型的なポリトナリテ(複調)の書法が用いられています。

同時代の他の多くの作曲家同様、ドビュッシーの影響を受けていた松平が、ランドルミーからの影響のもとフランス六人組の書法に近づき、ついには彼らの特徴でもあるポリトナリテの技法を獲得するに至る過程をたどることができます。

ポリトナリテは異なる調の和音を同時に奏でるわけですから、耳に心地よいハーモニーから遠ざかり不協和音を生み出す技法であるとも言えます。私自身、そうした音楽は、ハーモニーの厚み、温かみから遠ざかり、無機質で冷たい音楽であるなと感じることがありす。

《南部民謡第一集》創作にあたり、フランス六人組からの影響下にあった松平は、そのような音を追い求めていきました。

武田忠一郎が丁寧に採譜した土着の民謡を、フランス近代の実験的な音響の中に料理する松平。

一見、不協和を感じるこの組み合わせですが、私には人々の生活や汗の染み込んだ民謡を、クールな知性をもって1930年代の都会的に洗練された感性の中で再定義しようと試みる松平の姿が感じられます。

COMME des GARCONSの川久保玲さんのパワーと反骨精神と同等の、何かを変革しようとする人間のエネルギーをめりめりと感じます。

しかしこの後、ポーランド人作曲家、アレクサンドル・タンスマンです。との出会いにより、無機質で冷たい音響から、抒情的で温かい音響を求めるようになります。

『エール』の時代の作曲家たち⑤ 新古典主義と清瀬保二

『エール』を通じて戦争の悲惨さ、それが人々に与えた影響を改めて感じています。戦時中は日本音楽文化協会を通じて、音楽家たちの表現も時局の流れに沿うこと余儀なくされます。

戦争と作曲

音楽の創作史においても、第二次世界大戦の影響は絶大でした。1920年代以降、音楽系雑誌メディアが充実し、海外の音楽事情にリアルタイムに近いスピードで接することができていたのですが、戦争を機にそうした情報が遮断されます。それ以前はイギリス、アメリカの現代音楽やジャズ音楽の情報も盛んに入ってきていたですが、それが敵国音楽となってしまいました。戦後、そうした情報が復活するのは日本が主権を回復する1952年を待たなければなりませんでした。1940年頃~1952年まで、実に12年にも渡って、作曲家たちは海外とのつながりを絶たれたのです。

パワーと反骨精神の日本の作曲家たちは戦後、すぐに創作の場を作ろうと自ら新たなグループを作ります。新声会、新作曲派協会、地人会…。それらの場所は、古関裕而と同じく戦争を体験した作曲家たちの新たな創作への礎であると同時に、次の世代の作曲家の誕生を担う場でもありました。

主権回復後、日本の現代音楽の代表的な作曲家に一人に武満徹(たけみつ とおる)をあげることができます。彼は、清瀬保二が開催した新作曲派協会の第7回作品発表会で《ピアノのための2つのレント》を発表し、作曲家デビューを果たします。民族主義的と評されることの多い新作曲派協会ですが、彼らが戦前より傾倒していた思潮に新古典主義があります。

新古典主義について

歴史をたどってみると、一つの価値観のもとで社会が継続され醸成しつくすと、それ以前の価値観に立ち戻ろうという思潮が生まれる傾向があるようです。ヨーロッパの歴史の中で代表的ものは中世からルネサンスへの移行があります。

フランク王国以降の中世ヨーロッパ社会では、教会(主にカトリック)が重要な役割を持ち、政治にも人々の生活にも欠かすことのできない存在となっていきました。しかし、ペストの流行や十字軍遠征の失敗、ローマの聖ピエトロ大聖堂の建築という問題を抱えたローマ教皇庁は、免罪符(カトリック教会が発行した、罪の許しを表す証明書)の販売するようになります。そのようなカトリック教会に対して、マルティン・ルターらが異議を唱えプロテスタントが生まれたことは有名です。

こうしたことを背景に、人々はいかに生きるかを強く意識しはじめるようになりました。

そこでやってきたのがルネサンス(再生)の時代です。ギリシア・ローマの時代にこそ人間性が肯定されていた理想の時代であるという考えのもと、古代ギリシア・ローマの学問、知識の復興を目指す文化運動がイタリアで興り、ヨーロッパ広がっていきました。

神中心の世界から人間中心の世界へと動き始めた瞬間です。

これとよく似た状況が20世紀ヨーロッパ音楽にも生じました。バロック時代に生まれたハーモニーの原理は、古典時代、ロマン時代を通じて徐々に複雑に展開されるようになっていきました。そうした続きを読む →

『エール』の時代の作曲家たち④ 箕作秋吉と《芭蕉紀行集》

戦前の古関裕而氏も関わりを持った新興作曲連盟。その後に若手音楽家たちの巣窟となっていくこの集団は箕作秋吉(みつくり しゅうきち)の呼びかけにより1930年に発足されました。

 

箕作秋吉(みつくり しゅうきち)について

箕作秋吉(1885〜1971)は、美作国津山藩(現岡山県)で侍医を務め蘭学、医学、キリスト教を学んだ曽祖父、東京帝国大学の歴史学者であった父を持つという江戸時代から続く学者一族に生まれました。中学では「♪まさかりかついて金太郎~」の作曲者田村虎蔵の音楽の授業を受けました。田村の教育は画期的で、基礎的な学習を終えると各人に芸術歌曲を教えて助長するという方法をとり、箕作もシューベルトの《セレナーデ》を習いました。しかし、厳格な父から音楽への道は許されず、東京帝国大学工学部を卒業後、ベルリンに留学。ドイツで物理化学を研究する傍ら、ゲオルグ・シューマンに作曲を師事しました。

帰国後は海軍技術研究所に勤務する傍ら作曲の勉強を続け、1929年に五度圏和声と日本の音階を結びつけた彼独自の作曲理論を提唱した『国民音楽に就いて』を発表し、「日本的和声」「日本的作曲」というトピックの流行の着火役となりました。  

和声論と「日本的」なもの

五度というのは、ドとソの関係で西洋音楽においてもルネサンス時代後期以降、今に至るまで私たちが親しんでいるハーモニーの中で最も大切な音程です。ドの響きとソの響きは空気の振動比にすると2:3。箕作はこの比率をきっかけとして  3/2 の累乗から出てくる音を彼の理論の根底としました。つまりは彼の音楽へのアプローチは多分に科学者的であり、それが彼のいちばんの個性といえます。箕作は、ギリシア音楽から東洋音楽、また最新の12音技法にいたるまで、その五度圏和声論での説明を試みています。こうした態度は彼のロマンティックでパワフルな人間の現れのように感じられます。 当時の日本人作曲家たちが直面していた課題の一つに、日本の旋律にどのように西洋音楽としての和声をつけていくかという問題がありました。 西洋の古典的な和声では、その旋律の本来の魅了を表現することができない… では、どのような和音が必要なのか… こうした疑問に対して、五度圏和声論の形でいち早く答えようとし、アクチュアルに作品化していったのが箕作秋吉でした。そんな中、雑誌を賑わせた事件がありました。「日本的作曲」論争です。  

「日本的作曲」論争

きっかけとなったのは、当時東京音楽学校で教えていた作曲家クラウス・プリングスハイムの《管弦楽のための協奏曲》と彼が発表した論文「日本作曲家の運命的な一問題」です。プリングスハイムはこのように主張します。 「この国において一種の日本的様式を生み出しているのは、印象派、時には印象派的管弦楽の、遂行的というよりはむしと暗示的な諸方法である。・・・この日本的様式は、原則上の困難をきっぱりと克服すつというよりは、むしろこれを逃避するところに認められる一つの応急手段的な様式」でしかない。 当時の若手作曲家たちが見ていたヨーロッパ音楽は、ドビュッシーなど印象主義以降の音楽でした。長いヨーロッパ音楽の歴史をみると、数百年にわたって培われてきたハーモニーの原理を一夜にして覆そうとしているようにも見える20世紀初頭の様々な作曲思想に対して、主にドイツ系の作曲家たちを中心に反論がありました。プリングスハイムからすると、日本の若手作曲家たちによる新しい作曲思潮もそのような批判すべき文脈の中にあるように見えたのでした。 もとより、日本人作曲家たちは、日本において洋楽をどのような形で取り入れていくことができるか、真剣に悩みながら創作を続けてきました。いくら偉い先生とはいえ、外国人作曲家にその答えのようなものを出されていい気分がするはずもありません。これも同時代の作曲家清瀬保二(きよせ やすじ)は以下のように反論しています。 「我らにとっては彼らが感じる五度音階よりも、ずっと複雑な内容を感じ、表現力を持っているのである。これは紙上の理論的問題ではなくて、実感の問題なのである。・・・プリングスハイム氏が、この日本人の内容要素に対して、もっと深く研究されることを希望する」 私自身は、両者の主張に正解はないと思っています。当時の日本人作曲家の目指していた方向にひたすら突き進めば、本来音楽の持っている豊かな楽想の展開、心躍るハーモニーとリズムというものはなくなってしまいます。鹿威しの音一つが音楽だという世界に突き進んでしまうでしょう。一方で、新しい文化を取り入れる中で新しものを創造することなく、無批判に移入するだけでは、それは日本独自の魅力がなくなり、洋楽はヨーロッパのものという悲しい結末が待っているでしょう。(はたして、今はどういう状況といえるのか…。) そういう意味で、この論争は二律背反でも不毛なものではなく、善意と熱意ある両者の主張が昇華され受け継がれてこそ意味があるのではないかと思っています。  

《芭蕉紀行集》

と、また話がそれてしまいましたが、箕作秋吉《芭蕉紀行集》はそんな時代に、箕作が主張した五度圏和声論を純度100%取り入れて試みられた作品集です。この作品は1950年、戦後、日本人作品として初めてベルギーにおける国際現代音楽祭で演奏されました。芭蕉の俳句を歌詞とした10曲からなる歌曲集。10の俳句をご紹介して今回の記事を終わりにしたいと思います。  

野ざらしを 心に風の しむ身かな

馬に寝て 残夢月遠し 茶のけむり

海くれて 鴨の声 ほのかに白し

冬の日や 馬上に氷る 影法師

あらたふと 青葉若葉の 日のひかり

閑かさや 岩にしみいる 蝉の声

荒海や 佐渡によことふ 天の川

五月雨の 風吹きおとせ 大井川

菊の香や 奈良には古き 仏達

旅に病て 夢は枯野を かけ廻る    

『エール』の時代の作曲家たち⑤ につづく…

『エール』の時代の作曲家たち③ 江文也と《生蕃四歌曲集》part.2

江文也(1910~1983)は、日本統治下の台湾に生まれ、幼少期に福建省の厦門(アモイ)に移り、13歳まで過ごしました。中学からは長野県上田市で学び、武蔵野高等工業学校に通うかたわら、東京音楽学校選科で声楽と作曲を学ぶと、山田耕筰や橋本国彦らとも関わりを持ちながら音楽家の道を進みました。第一回、第二回の音楽コンクール(日本音楽コンクールの前身)では声楽部門で、第三回から第六回の音楽コンクールでは作曲部門で入賞、入選を続け、多方面で音楽の才能を開花させていきます。国際的にはチェレプニン・コレクションとして《生蕃四歌曲集》を含む6つの楽譜がドイツ、アメリカ、中国、フランス等でも出版され、1936年ベルリンオリンピック芸術部門では山田耕筰らをおしのけて入選を果たしました。映画音楽でも活躍し李香蘭主演『蘇州の夜』の音楽も担当しました。

声楽家としての江文也

1932年、武蔵野高等工業学校を卒業した江は、「卒業式の日にある楽器店に紹介して戴いて或るレコード会社へ声のテストを取って戴いた、そうしたら僕の声がレコードによく合うというので早速忙しい時局ものを吹き込ませられた…」と回想しています。江の歌によって1932年3月に山田耕筰作曲《肉弾三勇士の歌》を日本蓄音機商会(日本コロムビアの前身)から発売されていることから、この回想の中の「時局もの」というのはこのレコードのことであると思われます。

江は、山田耕筰作曲による《日本産業の歌》(北原白秋詩)、《沖の鴎に》(民謡)のほかにもレコーディングの仕事を多く残しています。今私がSiriuSとして日本コロムビアで活動させていただいていることと、なんとも言えないご縁を感じています。

続きを読む →

『エール』の時代の作曲家たち② 江文也と《生蕃四歌曲集》part.1

私が日本の作曲家を勉強するきっかけとなったのは、大学院時代にうけた片山杜秀先生の日本の近代音楽を取り扱った講義でした。

講義を受けたのは2011年。東日本大震災の直後の4月から。皆がこの先の日本はどうなってしまうのだろうと不安を感じていた最中でした。私が関わっていた学生企画のオペラも中止、プロの舞台にも軒並み影響が出ていた状況は、今日の状況とリンクします。

音楽なんて無力じゃないか?

続けていく意味なんてあるのか?

そういう思いを抱いていました。

片山先生の講義では、政治や経済など社会の出来事と音楽との関わりを、先生独特の情熱を込めて語って下さり、戦前〜戦後の日本の音楽のあり方の概観を私なりにイメージすることができるようになりました。

その時目の当たりにしたのが、過去の日本を生きた作曲家のエネルギッシュな姿でした。西洋音楽を本格的に取り入れはじめた明治以降の日本は、世界のどの国も経験したことのないスピード感で変動していきます。戦争も大きな出来事でした。日清日露戦争、第一次対戦による特需から第二次対戦の敗戦…。そうした国家的な大きな物語の中で蠢くように音楽家たちは創作しています。

音楽が広く人々に聴いてもらうメディアである以上、社会とその時代の音楽は切っても切り離せません。私はダイナミックな日本の近代史の中にあって、一人一人の作曲家がどのような情熱をもって生きたのかということに興味を持ち、大学院での研究課題として日本人作曲家を取り上げることにしました。続きを読む →

2020.11.5 NHK連続テレビ小説『エール』第104回出演

11月4日に引き続き、翌5日のエールにもオペラ歌手役として出演させていただきました。NHKの『エール』のサイト番組表サイトTwitterInstagramでも紹介していただいています。

私が大学院修士課程時代に研究した作曲家、江文也(こう ぶんや)はバリトン歌手としても活躍し《タンホイザー》や《ラ・ボエーム》を演奏しました。原語でオペラが上演されるようになって間もないころに日本人声楽家たちの音楽に寄せる情熱。そして録音を通して触れることができるそのクオリティの高さには、いつも背筋が伸びる思いでいます。

当時の作曲界について、私が思うことを文章にしてみました。今後、私が勉強してきた『エール』の時代の作曲家たちについて、少しずつホームページで記事にしてみようかなと思っています。

『エール』の時代の作曲家たち① 新興作曲家連盟——パワーと反骨精神

出演させていただきますNHK連続テレビ小説『エール』。毎朝、その時代の出来事が身近にあるように感じ、大作曲家にも僕たちと同じような人間的な悩み、情熱、挫折、希望があるのだと実感します。

何よりも、戦争という出来事は当時の人々に、僕たちが想像を絶するような経験を強い、またそれにより人間が鍛錬されるということもあったのだと思います。現在の状況を考えた時、コロナウィルスによる社会的な混迷により、戦争とはいかないまでも、多くの苦難を僕たちは味わっているのではないでしょうか?

NHK連続テレビ小説『エール』を通じ、過去の苦境の時代に、情熱をもって生きた人間の物語に触れることができることは、続きを読む →

2020.11.4 NHK連続テレビ小説『エール』第103回出演

NHK連続テレビ小説『エール』にオペラ歌手役として出演させていただきました。

初めてのドラマ出演。本当に素晴らしい作品、現場に関わらせていただき光栄です。

2020年11月4日(水)
総合 8:00〜8:15
(詳細はNHKホームページにて)

大学院時代、私が日本の歌曲を勉強するきっかけにもなった片山杜秀先生の日本音楽史の授業で、映画音楽好きの片山先生が語られる古関裕而氏のマルチな才能に驚いたのを覚えています。 古関氏は、私の修士課程および博士課程における研究課題であった新興作曲家連盟に所属し、また日本コロムビア専属として活動なさったということです。

当時の作曲界について、私が思うことを今後、シリーズで記事にしてみようかなと思っています↓↓↓

『エール』の時代の作曲家たち

ご覧頂けると嬉しいです!

2020.10.16 檜山小学校閉校記念講演会「響き合うことの喜び」

母校の島根県出雲市立檜山小学校が閉校するにあたりお招きいただき、演奏と講演をさせていただきました。

学校の中に入ってみると、今でも広いと感じる校庭、友達と遊んだ遊具、花いっぱいにした花壇、音楽室、そして生き生きと日々過ごす小学生たちの姿に、当時と変わらない素朴な時間が流れていました。

驚いたのは、僕が通っていたころと変わっていない学生たちの雰囲気です。休み時間は元気いっぱいなのですが、集会の時などはしっかりと並び、足並みがそろいます。自分は、そのきっちりした感じがむずがゆく、ふざけて先生から大目玉を食らったことがありますが。。今も変わっていない子供たちの空気感。学校に染み付いた伝統なのだなと思います。

そう思うと、長年この学校の壁に続きを読む →