山田耕筰《Two Legendry Poems of old Japan》〈The Bell of Dôjôji〉

博士学位審査演奏会で演奏する山田耕筰作曲《Two Legendry Poems of old Japan》より〈The Bell of Dôjôji〉の紹介をさせていただ来たいと思います。

山田耕筰は、1914年にドイツ留学から帰国すると、留学を支援した岩崎小弥太主催による東京フィルハーモニー管弦学部の指揮者として活動をします。しかし、山田にとって最初の交響楽運動が失敗に終わります。

その後、山田は1917年から1919年までアメリカに滞在しました。ここでは、舞踏家の伊藤道郎(※1 いとう みちお)と協同して《鷹の井戸にて》を作曲するほか、カーネギーホールで二回の管弦楽演奏会を開催します。

山田は1918年10月14日の「第一回管絃楽演奏会」では《秋の宴》、交響詩《暗い扉》《曼荼羅の華》等、1919年の「第二回管絃楽演奏会」では交響曲《かちどきと平和》、舞踏詩《マリア・マグダレーナ》等を指揮しました。

1918年の第一回の演奏会において、新作の《The Legendry Poems of old Japan》をバスバリトンのクラーレンス・ホワイトヒル(※2)のために作曲しました。
《The Legendry Poems of old Japan》は〈The Bell of Dôjôji(道成寺の鐘)〉〈Song of the Dance of Yedo(江戸の踊り子の唄〉の二曲からなり、歌詞は山田の依頼によって音楽評論家のフレデリック・マーテンス(Frederick Herman Martens:1874-1932)が創作し、カーネギーホールでの演奏会では管弦楽伴奏で演奏されました。

〈道成寺の鐘〉は、ワーグナー歌いのホワイトヒルにあてられたこともあり、オペラティックで力強い声の要求されるバラードで、〈江戸の踊り子の唄〉は小気味の良いリズムで歌われる日本の音階による作品です。
今回は、学位審査会で演奏させていただく〈道成寺の鐘〉の歌詞を上げて、楽曲の紹介をさせていただきます。

The Bell of Dôjôji
Frederick Martens

Anchin the Monk,beside the marshy pool,
Met Kiyohime,the lady merciless.
She smiled,and touched his rosary. At her caress
His vows were all unsaid,and she his heart did rule.

Vainly he prayed in shaded cloister hall,
To be delivered from her hateful spell;
With poppies crowned she entered in his moonlit cell.
He fled into the night,yet she pursued her thrall.

Vainly he won Dojoji’s templed shrine,
Beneath its bell of bronze a refuge sought;
For Kiyohime the bell-rope cut. The monk was caught!
While o’er the bell she crept like some lithe,clinging vine.

Her green robe glitt’ring into golden scales,
She turned a fearsome dragon,breathing fire;
The bronze bell red-hot glowed,lashed by her tail in ire,
Ere died away poor Anchin’s piteous cries and wails.

僧安珍は沼のほとりで
残酷な女性、清姫に出会った。
彼女は微笑み、彼の数珠に触れた。彼女の愛撫に
安珍の僧侶としての誓いは滅び果て、
彼女は彼の心を操った。

安珍は、彼女の憎むべき呪文を逃れるため
ほの暗い聖堂で祈ったが虚しく、
清姫はケシの花で飾り、月影がさす房に入った。
安珍は逃げたが、清姫はその奴隷を追った。

安珍は道成寺の社にたどり着き、
虚しくも青銅の鐘の下に逃げ場所を求めた。
だが清姫は鐘の綱を絶ち、僧侶は捕らわれてしまった!
すると彼女は葡萄の蔦のように鐘の上にまとわりついた。

彼女の緑の衣は、黄金の鱗となって輝き、
彼女は火を噴く恐ろしい龍にかわった。
青銅の鐘は赤々と燃え輝き、彼女の尾は怒りに打ちつけられた。
安珍が哀れにも叫び、泣き、死に至るまで。

(田中・拙訳)

 

歌詞はすべて三人称で語られます。三人称で語られるという事は、テキストの中には表れていない語り手の存在が想定されます。歌い手は、安珍清姫物語の語り部の役を演じることになります。

第一節目、悲劇的結末を暗示する衝撃的な短い導入の後、僧侶安珍と清姫の出会いがとつとつと語られます。音楽が劇的に展開するのは第二節目からで、清姫が安珍を追いかけるくだりになると、語り手の語調もオーケストラによる描写も生々しさを増していき、いよいよ安珍が清姫に捉えられる瞬間、音楽の緊張は最高潮に達します。二節目、三節目は音楽の生々しさ、語り手の語調ともに息をのむものがあり、まるで物語の中に入りこんで目の前で光景を目の当たりにしているような錯覚さえ覚えます。四節目では、大蛇にかわった清姫と、もだえ苦しむ安珍が描写されますが、オーケストラは大蛇が鐘を巻き付ける様子を描写する一方で、語り手の語調は客観性を取り戻していきます。最後は、冒頭同様、オーケストラの劇的な音で幕切れとなります。

某日本の昔話のアニメは、ナレーションで導入がなされ、物語が展開した後、最後にまたナレーションで教訓が語られるというような構成だったように記憶していますが、このバラードもそういった構成で作曲されています。

ホワイトヒルによる演奏が、当時のアメリカの聴衆にどのように届いたのか、今となっては知ることはできません。しかし、アメリカで伊藤道郎と協同し、二回のカーネギーホールでの演奏会を行った当時の山田耕筰は、アメリカやヨーロッパでの成功を夢見ていたような気がします。そういった山田の思いは、北原白秋と協同して「日本歌曲」の創作を開始した後にもオペラ・バレエ《あやめ》、《黒船》などに受け継がれていきます。

※1 伊藤は、ドイツの舞踏学校で学ぶと1914年にアイルランドに移り、1916年からはウィリアム・バドラー・イェイツ(アイルランド:1865-1939)と共に能を研究し、彼の代表的な戯曲である『鷹の井戸』の創作に貢献し、後にニューヨークやハリウッドにスタジオを設け、ブロードウェイミュージカルの振付も担当した人物です。1915年には《惑星》作曲中のホルストに《日本組曲(Japanese Suite)Op.33》の作曲を依頼しています。この作品の中には「ねんねんころりよ~」の旋律も聞く事ができます。

※2 Clarence Whitehill:1871-1932。ホワイトヒルは、アイオワ州に生まれ、シカゴ、パリ、フランクフルトで研鑽を積むと1904年にバイロイト音楽祭で《タンホイザー》に出演し、後にアンフォルタスやヴォータンを演じました。イギリスに渡り、ロイヤル・オペラハウスやコヴェントガーデンで成功を収めると、初の《ニーベルングの指環》の英語上演に関わりました。その後、アメリカに移りメトロポリタン歌劇場で活躍し、ドビュッシー《ペレアスとメリザンド》、コルンゴルト《ヴィオランタ》のアメリカ初演メンバーとして名を連ねました。ホワイトヒルの音源はこちら

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