「日本歌曲」

《翼をください》の作曲者で音楽プロデューサーでもある村井邦彦さんとお話をさせていただく機会を得て、私はこのような質問を受けました。

「君はドクターコースで日本歌曲を勉強しているようだけど、日本歌曲とはどのようなものなのかねえ?」

私は後頭部を打たれたような気がしました。一介の大学院生として日本歌曲を勉強しているつもりでいた自分でしたが、私は「西洋の音楽文化を受けた日本人が、西洋の芸術歌曲にならって創作したもので、童謡や唱歌とは違うものです。」というようなあいまいな持論を答えることしかできませんでした。大音楽家の前で、私の言葉は力なく宙を舞いました。
以降、「日本歌曲」という言葉を積極的に使うことになんとなく抵抗を感じています。

「日本歌曲」とは何か…..。ここでは、一つのヒントを得るべく、山田耕筰、信時潔、そして博士論文で取り扱った松平頼則(まつだいら よりつね)の「歌曲」についての言葉を挙げてみたいと思います。

では歌曲とは何であろうか。それは言うまでもなく詩歌そのものではない。さりとてそれは純粋な音楽そのものでもない。それは詩と音楽が不可離不可分の関係に於かれた芸術的な融合体を指すのだ。それをただ単なる音楽的見地から論ずることも無理であり詩的観点からのみ吟味するのも誤りである。それはもはや詩歌そのものではなく音楽そのものでもない。全く新しい「歌曲」という芸術的一形態となるのだ。
——山田耕筰「日本歌曲に就て」『放送文化』東京:日本放送協会、第8巻第1号、1953年

うたという言葉が示すように、詩と音楽は上古来今日までさまざまに結合され、ことに我国の音楽では声楽が断然器楽に優先し、楽器を主体とする曲や、リズムを強調する舞踊音楽にまで、歌のついているのが多い。この傾向は洋楽が入ってからも依然続いており、我国の音楽の進路に重要な意味を持っている。今日ではちょっとした歌曲でも作詞と作曲は別人であり、通例詩が先にできていて、作曲者がそれを歌詞として作曲するのである。近頃は初めから作曲を予想した歌詞もあるが、それはむしろ例外で、通例詩作の際それが作曲される場合のことはあまり念頭におかず。ただ読む詩、あるいはせいぜい朗誦するものとして作られ、作曲者はそれらのうちから撰んで、音楽という別の約束を持つものと結合し、詩情にそいながら新しい別境を作るのである。
——信時潔「歌詞とその曲」『心』東京:平凡社、1964年1月号

歌曲は何よりも先ず原詩の最高の表現をする事が僕の理想だった。(略)昔の作曲家は実に詩に無頓着なのが多い。しかしドビュッシー以降、あるいはすでにフォーレからそこには詩と音楽の妙なる諧調があった。したがって詩の重要性は認められ、詩の一つ一つ生きたものとするために、朗詠的なメロディの線が発生した。言葉の持つ本質的ニュアンスを基点とするのがそれだ。伴奏部は昔は単なる声の付属物であった。けれども近代の複雑な社会は我々に複雑な表現を求めさせている。声の旋律は僕にとっては複雑な表現の道具として不十分だ。伴奏に依って詩のもつ情緒感覚などを表現すべきであると思っている。したがって声音部と伴奏部は不可分の関係を有つのである。
——松平頼則「歌曲創作に於ける僕の立場」『音楽新潮』東京:音楽新潮出版所、1930年8月

山田耕筰は「詩と音楽が不可離不可分」の関係によって融合して歌曲となるとし、信時潔は「ただ読む詩、あるいはせいぜい朗誦する」詩が「音楽という別の約束を持つものと結合し、詩情にそいながら新しい別境」に至ったものを歌曲であるとしています。また、彼らより約20年後に生まれた松平頼則は、「近代の複雑な社会」を反映した情緒感情の表現を伴奏部に持たせつつも「声音部と伴奏部は不可分の関係を有つ」としています。

いずれの作曲家も、詩と音楽の密接な関係によって、「歌曲」という新しい境地を創作することを目指しています。
これは、「歌曲」を考えるで、最も普遍的で最も一般的なことなのだと思います。あまりにも当然のようで、忘れてしまいそうなことですがとても大事なことだと思います。

しかし、これはあまりにも普遍的で一般的にすぎ、「日本歌曲」でもポピュラーミュージックでもなんにでもあてはまることのよに思います。どのような作曲家が、どのような詩を選び、どのように詩を解釈し、どのような音楽語法を持ち、どのような音楽語法を選択し、どのように詩と音楽を融合したか。これを考えていくことが、大音楽家の質問への答えを見つける鍵になるように思います。

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