メディアとしての音楽—J.ハイドン 十字架上のキリストの最後の7つの言葉 Die sieben letzten Worte unseres Erlösers am Kreuze

2021年6月27日に演奏するJ.ハイドン《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》Hob.XX:2についてのまとめです。

 

①作曲の経緯

Ver.1 オーケストラ版

ハイドンは1785年頃スペイン南部の町カディスの司教ホセ・サルス・デ・サンタマリアに依頼を受けてこの作品の作曲の器楽版を作曲することになります。

カディスのサンタ・ロザリオ教会では毎年復活祭の前の聖週間に様々な祈りの儀式が行われていましたが、司教キリストが亡くなったとされる聖金曜日に地下礼拝堂で行う礼拝のために知人を通じてハイドンに作曲を依頼しました。

礼拝は、制金曜日の昼間、礼拝堂の内側に黒い布を張り巡らせて真っ暗にしたうえで、真ん中に灯りを一つだけともした状態で進められます。正午になると音楽の序奏が始められ、その後司教が壇上に上ってキリストが十字架上で語った言葉を述べ、その言葉について説明を加えました。その後、司教は壇から下り、十字架のキリスト像の前で膝まづいて黙想し、その間に音楽が演奏されました。キリストが語った言葉は7つあるため、これを7回繰り返し、最後にキリストが息絶えた後に起こったといわれる大地震の様子がい音楽で奏でられ、礼拝は終了します。

ハイドンはこの7つの言葉の内容をかみしめ、黙想に合うように遅いテンポの7つの楽章を作曲し、さらに序奏と早いテンポの「地震」の楽章をつけ加え合計9つの楽章からなる作品を作り上げました。これが《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》の最初のヴァージョンで、1787年にカディスの礼拝堂で初演されました。

 

Ver.2 弦楽四重奏版 ピアノ版

1787年夏、ウィーンの出版社アルタリア社と印刷楽譜出版の契約を結ぶにあたって、ハイドンはオーケストラ版をもとに、弦楽四重奏版の編曲を行いました。また、アルタリア社が用意していたピアノ編曲版に目を通し、オーケストラ版、弦楽四重奏版、ピアノ版の3種類の楽譜が出版されました。

 

Ver.3 オラトリオ版

この作品のオラトリオ版に最初に着手したのはハイドンではありませんでした。ドイツのパッサウの大聖堂に勤めていた音楽家、ヨーゼフ・フリーベルトは1792年から93年にかけて、ハイドンのオーケストラ版に歌詞をつけ合唱パートを付け加えました。また、司教が語ることになっていたラテン語によるキリストの7つの言葉をドイツ語に書き換え、レチタティーヴォにしました。

ハイドンは第2回ロンドン旅行(1794~95)の帰りにパッサウを通りがかった際、フリーベルトが編曲したこのカンタータ版の演奏を聴き、その楽譜をウィーンに持ち帰り1975年から96年にかけてフリーベルト編曲をもとに自身で作り直しました。ハイドンは、レチタティーヴォの部分をコラール形式の合唱に書き換え、また合唱の部分も幾分の変更を加えました。その際、オラトリオ《天地創造》《四季》の歌詞を作成したゴットフリート・ファン・スヴィーデンが歌詞の作成に協力しました。また楽器編成もフリーベルト版よりも大編成とし、1796年に完成させました。

 

②歌詞

《十字架上のキリストの最後の7つの言葉》対訳

 

私感

ウィーン古典派の代表的な作曲家とされるハイドンですが、彼が生まれたのはJ.S.バッハが活躍中の1732年。彼の青年期頃までは音楽史の上ではまだバロック時代でした。絶対王政時代に王侯貴族たちの権威の発露や社交の場での音楽が多く作られたバロック時代。ハイドンもまたエステルハージ家に仕えながらも、楽譜出版を通じて、また合唱文化を通じて創作の方向性を形作っているこの作品は、古典派時代(第一次産業革命から市民階級が活躍する時代)の新しい音楽の形を象徴するものであると思います。弦楽四重奏、ピアノ、合唱、これらは新しく興った市民階級が享受した音楽だからです。

この作品の根幹にある「祈り」。それすらも、社会の変遷とともに新しい形で広がっていっている。新しいメディアとしてのハイドンの音楽は親しみやすく、世の中に自然と溶け込む姿は美しいと思います。

 

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