1989年にバーンスタイン自身が指揮をした演奏会形式の《キャンディード》。序曲と第2幕の前にバーンスタインが観客に向けて語った内容をご紹介します。
序曲前
いやはや友人諸君、みなさんはこう思っているだろう。「また老教授の講義か」。手短に紹介だけをしておきたい。 演奏前に一言喋る気になったのは、30年いや正確には35年前にこう尋ねられたからだ。「なぜ《キャンディード》を音楽劇化するのかね」と。 質問に答えたい。作曲を担当した者としてだけでなく、皆さんと同じく歴史を見つめてきた者として。 その歴史も特に18世紀を中心として「啓蒙の時代」といわれた時代。ヴォルテールが生き、著作とと共に人々を啓蒙した時代だ。 代表作は薄っぺらいが、内容は手強い『カンディド』。劇作家のリリアン・ヘルマンと私は共同で音楽劇化を試みた。 原題は『カンディドーーーあるいは楽天主義説』であり、彼がその本で痛烈に皮肉った当時の主流思想が「楽天主義」。その思想を最初に捉え体系化したのがG・W・ライプニッツ。アレクサンダー・ポープがそれを広めた。ポープは『人間について』でこう書いている。「何であれ、今あることは正義である」。ライプニッツとポープの言うところによれば、創造主は善なるものである。最善なる創造主が作る世界は可能な限り最善の世界である。何であれ、今あることは正しいわけだ。 この世では確かに、罪なき者が殺され、罪人は罰されない。病気や死や貧困がある。だか、神の計画である全体像を見ることができれば、すべては最善であることがわかるとライプニッツは考えた。 ヴォルテールは当然そんな思想はおかしいと考えた。特に1755年のある日、ポルトガルのリスボンが大震災で全壊し、無数の人々がガレキに埋められ、生きたまま火に包まれた。全滅だ。 ヴォルテールは言う「ライプニッツが正しいのなら、神々は嬉々として殺虫剤を撒き散らし、何百万の蚊を殺していることになる」。リスボンの不幸を見かねたヴォルテールは、カンディドを書き、あらゆる既成の権力を痛罵した。王室、軍人、商人を揶揄し、とりわけ異教徒を火刑にする教会権力を痛烈に皮肉った。神への供儀の火刑だった。 ヴォルテールは言う「宗派宗教は常に争いを煽動し続け、楽天主義を信じさせる。楽天主義は諦観と無気力を生み出し、変化し、進歩し、不正に対抗する人間の力を抑制し、よりよい世界の実現に寄与するものの創造を禁じるのだ。」 皆さんが退屈している講義の下調べをする途中で私は、ヴォルテールの“イズム”を簡潔にまとめた文章を発見した。 以下引用 「ヴォルテールは折衷主義者。彼が統合したのは克己主義と快楽主義と懐疑主義である」 それでは序曲を‼︎
第2幕前
正義にして善。すべては正しく善である。また老教授の講義になるが、それは本当だろうか? 悪の兆しは何処にもある。天災や予期せぬ惨事は別にするとしても、われわれ人間が故意にする悪事はどこにでも見られるではないか。「考えられる限り最善」のこの世界の随所に。 最悪なのはリリアン・ヘルマンがテーマに選び、音楽劇によって訴えたかったもの、今では記憶に薄れつつある悪夢”マッカーシズム”という愚行だ。 第1幕で見たスペインの宗教裁判そっくりの”イズム”。血も凍る恐怖。 それはわれわれの世紀の50年代の初期のことだった。リスボンの事件からちょうど200年後のことだ。アメリカを代表するすべての良き文化が弾圧された時代。 弾圧者はウィスコンシン州出身の上院議員。ジョセフ・マッカーシーとその手下どもだった。ハリウッドも狙われた。諸君が生まれる前の話だ。 映画人のブラックリスト、テレビ番組の検閲、失業と自殺と国外追放の時代。共産主義者の疑いがある人物を知っているだけで旅券発行停止。私も自国の政府から旅券発行を拒否された。 ヴォルテールも同じように旅券発行を拒否されている。彼の返答は風刺とあざけりだった。笑いを通じて読者が得たのは自己認識と自己を主張する精神。その精神から議論が生じる。議論や論争こそ、つまりは民主主義のいしずえなのだ。 だからリリアンと私は原作の辛辣な機知と知恵に魅了され、作詞家のJ・ラトゥーシを誘い音楽劇化の作業に着手した。第1幕の梅毒の歌を書いた奇才だ。 もう1曲の梅毒の歌でやや誇張した詩を書いた男はこれもすぐれた作詞家のR・ウィルバー。亡くなったが合衆国の桂冠詩人だった。その2人以外にも大勢の詩人が改訂に次ぐ改訂の面倒な作詞作業に貢献している。 たとえばH・プリンス、S・ソンドハイム、J・マルチェアリ、J・ミラー博士、わたしも書いているがそろそろパングロスの名調子に譲りたい。