前回、中学時代より、『世界文学全集』などで各国の文学に親しみ、殊に近代文学に傾倒していた高田三郎(1913〜20001)についてまとめてみました。
今回は、彼がキリスト教と出会い「やまとのささげうた」を作曲した経緯についてまとめてみたいと思います。
【高田三郎のキリスト教音楽】
高田は、カトリック信者であった妻・留奈子の影響もあり1953年にカトリックの洗礼を受けました。
日本のカトリック教会の聖歌は1933年、『公教聖歌集』としてまとめられていましたが、以降改訂の気運が起こり、48年には『公教聖歌集』の増補版が出版され、その後の56年には「聖歌集改訂委員会」が発足。高田はこの改訂委員会に音楽委員をして加わることになりました。「聖歌集改訂委員会」では日本語聖歌の創作が試みられ、ミサ曲の日本語訳を委員会が、そして作曲を高田が担うことになりました。その結果生まれたのが《ミサ(やまとのささげうた)》で、これは改訂聖歌集として1966年に発表された『カトリック聖歌集』に収められました。
高田は当初、洋楽風の旋律を想定していましたが、同じく音楽委員を務めたゴーセンス神父(エリザベト音楽大学初代学長)からの反対を受け、日本的な旋律を作曲することになりました。第二バチカン公会議後、1967年に発表された「典礼音楽に関する指針」(典礼検証実施評会議)では「その地域の人々の精神、伝統、特色ある表現に巧みに調和」させる音楽を重視されており、これに先立つゴーセンス神父の助言には先見の明があったと言えます。
こうして日本の伝統的な旋律に意識を向けた高田は、ミサ典礼文に仏教音楽の旋律的特徴を取り入れていきました。浄土宗の経文、礼賛、御詠歌の旋律要素を「日本人の祈りの心と一致」するように取り入れていったのです。
高田はやみくもに日本的旋律を求めることだけをせず、教会の伝統を学ぶため1957年にはフランスのソレム修道院で2週間のグレゴリオ聖歌漬けの生活も送りました。19世紀グレゴリオ聖歌研究の中心地であったとい言っても過言ではないソレム修道院。ソレム式の歌唱は、後にグレゴリオ聖歌が書かれたネウマ譜の仔細な解読を行った人々(セミオロジー)からの批判を受けましたが、高田はアルシス(飛躍)とテーシス(休息)を演奏の骨子としたソレム式の歌唱と日本語の親和性に注目し、これも聖歌創作の礎としました。
とかく、「日本的」という概念と直面した芸術家は、日本・東洋を我、西洋を彼と、二元的な考え方になりがちですが、高田は日本の聖歌創作の流れの中にいて、日本の伝統的な祈りとキリスト教音楽、ひいては西洋音楽の礎といっても過言ではないグレゴリオ聖歌の真髄を学び取り自身の聖歌創作へと生かしていた点で、そうした二元論的な捉え方とは一線を画していると言えます。
高田の作品が今日でも教会で、またコンサートホールで鳴り響いているというのは、私たちにとってかけがえのないことだと思います。
私も高田三郎の歌曲を学び、演奏していきたいと思います。
《参考文献》
高田三郎 「『詩』について」『音楽芸術』東京:音楽之友社、1993.12、41〜43頁。
紅露剛、石田昌久、坂倉直美、関谷治代「高田三郎のあゆみ–没後10年を記念して」『南山大学図書館カトリック文庫通信』 愛知、南山大学、2020.11、2〜8頁。