高田三郎と日本の文学・音楽①

合唱曲《水のいのち》や歌曲〈くちなし〉(歌曲集《ひとりの対話》)で知られる高田三郎(1913~2000)は、先日の演奏会で歌唱した畑中良輔先生よりももう一つ世代が上で、東京音楽学校では信時潔やクラウス・プリングスハイムらに作曲を師事しました。

高田は、歌曲や合唱曲のほかにもカトリックの日本語聖歌を作曲したことでも知られています。彼が学生時代を過ごした戦前期には「日本的」な作曲とは何かという問題が創作の上で、また雑誌メディアの上でもさかんに論じられていた時代でした。実際に師であるプリングスハイムはそういった論争の渦中にいた人物でもありました。得てしてそうした論争は、技術上の問題や、文化接触による摩擦の問題を含んでいる中、高田はもう少し純粋に創作上の問題、または祈りの中での問題として日本の音楽や文学をとらえていたように思います。

高田三郎と文学

高田は1913年、名古屋市中区矢場町の芸術や音楽に造詣の深い弁護士の家庭に生まれました。十歳年上の兄の影響から、中学に入ったころの高田は音楽と同時にH・G・ウェールズ著『世界文化史体系』や『世界文学全集』に傾倒し始め、「人間そのものの精神に深く入り込んで」いきました。やがて、彼は音楽を知るにつれ、フランスをはじめとする西洋の音楽作品の中に全集の中の『近代詩人集』で読んだ近代詩人たちの作品を発見していきました。ドビュッシーの《牧神の午後》と出会いは、マラルメの文学を管弦楽作品とした作曲家の計画から、歌曲のテクストとして用いることができる詩の限界にも気づいたといいます。

その後、作曲科の学生となった高田は、最初の歌曲として堀口大学の訳でヴェルレーヌの「悲しき対話」に作曲し後に立原道造、深尾須磨子、北川冬彦、高野喜久雄などの詩人と出会いました。

高田自身、日本の「日本の詩というものは明治の開国以降に出始めたもので、その前は和歌、俳句が締めており(中略)詩の世界は輸入を待ってその後に育っていった」、「歌曲におけるテクストとしての詩について辿ってきた私の道筋も、その歴史と並んで来ており、あながち廻り道とは言えない」と述べています。

高田にとっての日本の近代史は、『世界文学全集』の「近代詩人集」のその先にあると考えることができます。このような「世界文学」的な視野で日本の近代史を捉える彼の文学観は、同じく明治以降の「輸入」品である西洋音楽による作曲において、自然なバランス感覚を持ちながらの創作することを可能にしているのではないかと思います。そうしたバランス感覚から生まれ出る高田の音楽が、難しいもの、有難いものといったクラシック音楽につきものの先入観を超えて、自然と心に染み入るものであることは、彼の合唱、歌曲作品が今でも愛される理由の一つであるのではないでしょうか。

 

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