岡田暁生『音楽の危機–––《第九》が歌えなくなった日』とハイドン《十字架上のキリストの最後の七つの言葉》
先日2021年6月27日のハイドン《十字架上のキリストの最後の七つの言葉》本番と、岡田暁生氏著『音楽の危機–––《第九》が歌えなくなった日』(東京:中公新書、2020年9月25日)を読んで考えたことをメモ的にまとめたいと思います。かなり徒然な内容です。
合唱団主催の演奏会の延期、中止が続き、また私自身も大学の合唱の授業は今期は全てオンラインでの開講となっており、ここ一年ちょっとの間で多数の人が集まって音楽を楽しむ、学ぶという場所が消えてしまっていることに、もう半ば慣れてしまっていました。しかし、先日のハイドン《十字架上のキリストの最後の七つの言葉》は、オーケストラを弦楽四重奏バージョンに改めるなど工夫をこらしての演奏だったとはいえ、第一生命ホールで合唱、器楽、ソリスト、聴衆のすべてが揃って、一つの時間を共有できたこと、その久しぶりの体験に、やっぱりこういう音楽が好きだと実感する本番となりました。
ここ一年ちょっとの間、ライブ、コンサートに実際に足を運んで楽しむことができなくなった機関、アーティストが模索して実践してきたのは、ライブ配信やそれに伴う録音技術の習得でした。実際に私も素人ながら録音機材、パソコン、カメラを入手し撮影や動画編集の勉強を少しずつはじめています。
新しい音楽の発信の仕方を模索する一方で、何か羽をもぎとられたような虚しい感覚も同時に感じていました。
人と人が同じ場所の空気を共有しない音楽・・・
レコーディングやオンラインライブなどを通じて、そこにちょっとした違和感を持ちながら過ごした一年ちょっとでもありました。これまで悩んできた音楽には、再生不可能な一度きりの瞬間へかける時間、思いがあり、これまで楽しんできた音楽には、共演者、聴衆と同じ音楽を共有したその唯一の瞬間の喜びがありました。
岡田氏は著書の中で「『録音された音楽』と『生の音楽』とは根本的に別ものであり、前者は『音楽』ではないことを明確にするべく、『録楽』という概念を提唱』した作曲家三輪眞弘氏の考えに沿いながら話を進めていきます。
「音楽」と「録楽」・・・どらが良いとか悪いとかいうことではなく、この二分法はとてもしっくりくるような気がしました。
岡田氏はまた、「美術や文学は音楽と違って孤独な鑑賞に向いている」が、「録楽は、美術にとても近い」と語っています。
リモートワークはプライベートな環境の中で他者と情報を共有しつつ仕事を進めていきます。「録楽」あるいはライブ配信においても、あくまで鑑賞の場はプライベートな空間。それは有名な美術作品をだれもいない美術館で鑑賞するのと同じような体験なのではないでしょうか。
では、「音楽」とは何か。これは難しい問題だと思いますが、今のコンサートの形(興行主が企画をし、チケットを売り、そのチケットを買えばだれでも聞きに行くことができる)が成立したのは第一次産業革命後の古典派時代のことでした(岡田氏『西洋音楽史』に詳細)。それ以前の王侯貴族だけの特権的な持ち物だった音楽が、一般市民にも開放されたというオープンな側面がある一方で、都市に住んでいるという条件は音楽を日常的に享受する上で欠かすことができませんでした。また、経済的な面を含めチケットを買うことができるということも、ある意味で条件なのかもしれません。
まとめ
「録楽」は美術鑑賞、読書と同じ個人的な体験であるのに対して、「音楽」は閉ざされた空間での集団的な体験である。
「録楽」はリモート、「音楽」はローカル
18世紀に起きた第一次産業革命によって、現在の音楽聴取の文化が整えられました。現在は第四次産業革命すなわちIoT(Internet of things)の時代として、すべてのモノ・コトがインターネットでつながれようとしています。そんな中で、音楽においてもリモートでの聴取体験が一般化しつつあります。私は古い人間といわれようと、ローカルな音楽体験が好きです。おそらくローカルな体験をリモートで共有するという時代になってくると思います。そうした意味で、ソロよりもデュオあるいはアンサンブルの形式の音楽がより勢いをもってくるような気がしています。ソロの体験は人々の日常の中に既にあるからです。
おうち時間、ひとり時間に慣れた私たちを、本来黙想の音楽であるハイドン《十字架上のキリストの最後の七つの言葉》が、ホールで共有する一人一人のひとり時間をおおらかに包み込んでくれました。