『エール』の時代の作曲家たち⑥ 松平頼則と《南部民謡集》

『エール』の時代の若手作曲家たちは、ヨーロッパの新古典主義に呼応して自分たちにとっての「古典」とは何かを追い求めていきました。

松平頼則(まつだいら よりつね)は初期においては民謡に、そしてある時期から雅楽に自らの「古典」を見出し、創作の素材にしていきます。そんな松平が東北民謡に素材を求めた《南部民謡集》をご紹介したいと思います。

松平頼則(1907~2001)は東京小石川に常陸府中藩の流れをくむ松平頼孝(よりなり)子爵と、明治天皇の侍従長を務めた侯爵徳大寺実則(とくだいじさねつね)の四女治子(はるこ)の長男として生まれました。

父頼孝は宮内省の狩猟官に任ぜられ、聴講生として東京帝国大学理科大学動物学科で学び、日本鳥類学会の設立時に評議員としても名を連ねました。頼孝は小石川の邸宅内に鳥類研究のための標本館を建て、図鑑制作のために生物画家小林重三(こばやし しげかず)を雇いました。

小林は日本三大鳥類図鑑と称される3つの図鑑を残しています。内気な松平頼則少年は、小林の「デッサンは、とても大切なんですよ」と話す仕事に興味を示し、小林の絵がデッサンから色づき、やがて作品へと変わっていく様を非常に楽しみにしていました。後に松平は、それが「作曲生活と密接に意識的に繋がっているのじゃないか」とも話しています。

生物画家が生物を見る眼差し——その緻密で性格な素材へのまなざしは、後に松平が日本の「古典」の素材を見出し観察し、作品化していくその態度の中に現れていきます。

当時からフランス語教育が盛んであった暁星中学を卒業した松平は、慶応大学仏文科に進学しました。その時期に来日し、同時代の多くの作曲家に影響を与えることになる演奏会シリーズがありました。

フランス人ピアニスト、アンリ・ジル=マルシェックス。

帝国ホテルでの連続演奏会において、彼は1500年代の楽曲から、バッハなどバロック時代、モーツァルト、ベートーヴェンなどの古典派時代、ショパン、シューマンなどのロマン派時代、そしてストラヴィンスキーやフランス六人組などの現代音楽まで、計39名、93曲の作品を演奏しました。ヨーロッパの一流演奏家によるこうした通史的な演奏会は、多くの日本人に衝撃を与え、日本人作曲家にとっての歴史的立場を批判的に意識させるきっかけともなりました。

松平はこうした刺激もあり、慶応仏文科に一旦は入学しましたが、東京高等音楽院(現 国立音楽大学)に通うなど、音楽への情熱を燃やし始めます。1931年のジル=マルシェックス2回目の来日の際には直接レッスンを受けるほどでした。

松平はこの時期、パリ音楽院に留学経験のある小松耕輔や東京音楽学校に招聘されいたハインリヒ・ヴェルクマイスターやチャールズ・ラウトルップなど、当時日本で考えられる一流の指導者たちの薫陶を受けました。

音楽家として歩み始めたこの時期の松平の特筆すべき功績として、翻訳家としての活動があげられます。

暁星中学、慶応仏文科と進んだ松平はその語学力を生かし、海外の最新の音楽論文を翻訳し、『音楽新潮』等の雑誌で紹介していきます。1929年には同紙上にフランス人音楽学者・批評家のポール・ランドルミー著“Le déclin de l’impressionisme ”を翻訳し、「印象主義の衰頽」として紹介しました。ランドルミーは独自の音楽史観のもとドビュッシーを過去のものと批判し、新たな創作に乗り出そうとするフランス六人組の技法を紹介しました。この中で、ランドルミーは六人組の最も特徴的な技法を、ポリトナリテ(複調:同時に2つの調を重ねて奏でる作曲技法)にあると説いています。

ランドルミーのこの論文は1930年代の松平の作曲の指針となりました。

この翻訳当時は、日本人作曲家たちは日本にドビュッシーの音楽から影響を受けて間もない頃でした。そうした時期において、松平が翻訳したこの論文の先進性はいかほどのものだったでしょうか。むしろ、ほとんどの音楽家はその内容を理解することは難しかったかもしれません。

松平のこうしたヨーロッパ最新事情へのアンテナの鋭さは、戦後、彼が現代音楽作曲家として世界的な活躍をしていく上でも欠かせない要素だと思われます。

そんな最中、松平が最初に出会った「古典」。それは南部民謡でした。

松平は、民謡研究者、武田忠一郎が採譜した東北民謡の音符にピアノ伴奏を付加する形で《南部民謡集第一集》(1928-37)、《南部民謡集第二集》(1938)の二つの曲集を発表しました。

第一集はチェレプニン・コレクションとして海外でも出版された経歴を持ちます。また作曲年代も広いことから松平の作曲スタイルの変遷をたどることができる曲集といえます。

《南部民謡集第一集》は〈牛追唄第1〉〈子守唄〉〈牛追唄第2〉〈田植唄〉〈刈上げ唄〉〈ソンデコ〉〈盆踊り〉の7つの作品からなる歌曲集です。

第1曲《牛追唄第一》、ドビュッシーからの影響がみられ、松平自身も冒頭でみられる増4度音程を「ドビュッシーの花粉にまみれていた私にとって自然な選択だった」と語っています。続く第2曲〈牛追唄第二〉もドビュッシー的な色合いの強い音がちりばめられています。

第5曲〈刈上げ唄〉、第6曲〈ソンデコ〉は、松平が自身の著作『近代和声学』の中で、ダリウス・ミヨー(フランス六人組の一人)の書法として解説している半音階的な技法が駆使されています。

第7曲〈ソンデコ〉では、ピアノ伴奏の右手は黒鍵のみ、左手は白鍵のみの音による典型的なポリトナリテ(複調)の書法が用いられています。

同時代の他の多くの作曲家同様、ドビュッシーの影響を受けていた松平が、ランドルミーからの影響のもとフランス六人組の書法に近づき、ついには彼らの特徴でもあるポリトナリテの技法を獲得するに至る過程をたどることができます。

ポリトナリテは異なる調の和音を同時に奏でるわけですから、耳に心地よいハーモニーから遠ざかり不協和音を生み出す技法であるとも言えます。私自身、そうした音楽は、ハーモニーの厚み、温かみから遠ざかり、無機質で冷たい音楽であるなと感じることがありす。

《南部民謡第一集》創作にあたり、フランス六人組からの影響下にあった松平は、そのような音を追い求めていきました。

武田忠一郎が丁寧に採譜した土着の民謡を、フランス近代の実験的な音響の中に料理する松平。

一見、不協和を感じるこの組み合わせですが、私には人々の生活や汗の染み込んだ民謡を、クールな知性をもって1930年代の都会的に洗練された感性の中で再定義しようと試みる松平の姿が感じられます。

COMME des GARCONSの川久保玲さんのパワーと反骨精神と同等の、何かを変革しようとする人間のエネルギーをめりめりと感じます。

しかしこの後、ポーランド人作曲家、アレクサンドル・タンスマンです。との出会いにより、無機質で冷たい音響から、抒情的で温かい音響を求めるようになります。

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