信時潔《小倉百人一首より》・フェリックス・ワインガルトナー《日本の歌》Op.45

学位審査会で演奏する信時潔《小倉百人一首より》とフェリックス・ワインガルトナー《日本の歌》Op.45をご紹介させていただきます。

信時潔は、山田耕筰に遅れること一年、1887年の生まれです。父吉岡弘毅(よしおか  こうき)は、陽明学を学び、尊王攘夷派として戊辰戦争に従軍した後、外務権少丞として外務省における日朝外交最初の担当者として国交樹立を試みたが失敗し、1874年に征韓不可の建白書を左院に提出しました。1875年にプロテスタント一派である長老派で洗礼を受け、本郷日本基督一致教会の創立に参加して長老に選出されたほか、東京基督教青年協会(東京YMCA)の創設にも関わった後、高知教会、京都室町教会の設立に関わり、大阪北教会の牧師となった人物です。

滝廉太郎が聖公会で洗礼を受け、また、山田耕筰の母である久もアメリカ長老派で洗礼を受けているように、当時の日本において西洋音楽を志すきっかけの一つにキリスト教があったようです。信時潔については《海ゆかば》の作曲者というとピンとくる方もいらっしゃるかと思います。

話は逸れましたが、《小倉百人一首より》はその名の通り、藤原定家が京都小倉山の山荘で編んだとされる小倉百人一首の中から大江千里「月見れば」、紀友則「久方の」、小野小町「花の色は」、源兼昌「淡路島」、待賢門院堀川「長からむ」、中納言朝忠「逢ふことの」、紀友則「人はいさ」、後徳大寺左大臣「ほととぎす」の八首をとり作曲されています。信時がこの作品を作曲したのは彼がベルリン留学中の1920年~1922年の間でした。作品をひもとくと、信時は八首八様に音のパレットを駆使して作曲していることがよくわかります。清水重道の詩に曲付けた歌曲集《沙羅》からも感じることですが、信時は音のヴァリエーションという意味で、連作歌曲と呼ぶにふさわしい構成を作り上げていると思います。《沙羅》にしても《小倉百人一首より》にしても、詩の内容に一貫性はありませんが、音楽としての一貫性や統一感を感じることができます。

また、信時は《百人一首》においてかなり攻めた作曲を行っているようにも思います。第三曲〈花の色は〉では、後に清瀬保二が〈なめいし〉などで体現するようなシンプルな五度和音のオスティナートが使われていますし、第六曲〈逢ふことの〉では五音音階によるシンプルな対位法が歌唱旋律と絡み合い、第八曲〈ほととぎす〉では機能和声外の音によるホトトギスの鳴き声の表現がなされています。故畑中良輔先生が〈丹澤〉の中の凍てつく岩はだを表現した和音について講じられていた思い出されます。この曲集を見てみるだけでも、33歳で海を渡った信時が異国ベルリンの地で刺激的な音楽体験をしていたことが想像されます。

 

フェリックス・ワインガルトナーは、オーストリア=ハンガリー帝国のザーラの貴族の家に生まれたユダヤ人指揮者、作曲家です。貴族の生まれですが、幼少期に父を亡くし貧しくなります。松平頼則の幼少期に通ずるものがあります。ハンブルク歌劇場、ベルリン宮廷歌劇場、ウィーン宮廷歌劇場(現・ウィーン国立歌劇場)で指揮者をつとめた後、グスタフ・マーラーの後任として1908年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を務めました。我らが小澤征爾氏の先輩ということになります。

1937年には日本に来日し、新交響楽団(現NHK交響楽団)を率いて国内を演奏旅行したほか、「ワインガルトナー賞」作曲コンクールを開催しました。このコンクールで松平頼則(まつだいらbよりつね)は管弦楽《五つの南部民謡》で一等賞を獲得しました。作曲家としては、歌舞伎及び浄瑠璃の演目であり『菅原伝授手習鑑』を元にしているたオペラ《寺子屋(Die Dorfschule)》(1930)を作曲しています。これは、上田萬年(うえだ かずとし)と和歌の翻訳論争を繰り広げたカール・フローレンツによる訳を素材としています。

《日本の歌》 Op.45は、P.エンダーリンクによって1906年にライプツィヒで出版された『日本の文学と詩(Japanische Novellen und Gedichte)』のテクストに、1908年に作曲されました。ワインガルトナーとこの詩集との出会いには、ワグナーやスメタナなどの後援者でありウィーンとパリの社交界の花形であった、パウリーネ・フォン・メッテルニヒの存在が大きく影響しており、彼女は1901年にはウィーンのプラター広場で桜まつりを開催し、日本に興味をもった五万人以上の人々を集めました。ワインガルトナーは伝記の中で1908年当時の様子として、「私は、当時のウィーンではとても狭い人間関係を築いていた。私に対する敵対的な雰囲気は、疑い深く、また萎縮させていたからだ。例外はパウリーネ・メッテルニヒ女史であった。この、知的な女性は私にとても暖かく接してくれ、私ははじめから彼女に魅了されてしまった。」と語っています。ヨーロッパの貴族の中でのジャポニスムが芸術家たちへと伝播していく様をここに読み取ることができます。

当時、日本の俳諧はヨーロッパへと伝わり、ダダイズム、シュールレアリスムなどを標榜したヨーロッパ近代詩人たちに影響を与えています。日本の文化が単なる異国趣味ではなく、彼らの創作を刺激していた事実は、興味深いです。

ワインガルトナーのこの作品もそうした文脈に位置づけられるものでしょう。彼はマーラーの後任としてウィーン・フィルを率いましたが、《日本の歌》における音楽もマーラーの音楽を想起させます。ただし、巨大なマーラーの音楽のミニチュアライズしたような印象です。

興味深いのは、ワインガルトナーの想像力は明らかにヨーロッパのそれであるということです。最も象徴的なのは僧正遍照の「天つ風 雲のかよひ路 吹きとじよ 乙女の姿 しばしとどめむ」の歌に着けられた音楽ですが、乙女が舞っている音楽は明らかにワルツです。ドイツ語に訳された翻訳和歌は、ワインガルトナーの想像力を自文化の範疇で飛躍させているようです。

それでも、マーラーのように肥大化した後期ロマン派の音楽を、ミニアチュールの形に180度方向転換させた翻訳和歌の功績は大きいのではないかと思います。

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