学位審査会で演奏する松平頼則(まつだいらよりつね)とアレクサンドル・タンスマンについてご紹介したいと思います。
松平頼則は、徳川の流れを汲む松平頼孝(よりなり)子爵の長男として、1907年(明治40年)5月5日、東京小石川久堅町に生れました。彼の名は、父頼孝の「頼」と、外祖父徳大寺実則(とくだいじさねつね)公の「則」を取って頼則と命名されました。祖父頼策(よりふさ)は常陸府中最後の(10代目)藩主です。外祖父徳大寺実則は、東山天皇の血を引き、宮内卿、内大臣、明治天皇の侍従長を勤めました。頼則は、鳥類研究をしていた父のもとで幼少期を過ごし、そこで雇われていた鳥類画家小林重三の仕事を見て芸術的な創造に興味を抱きました。1914年、学習院初等科に入学、1920年にはフランス語教育が行われていた暁星中学部に転校しました。1925年、アンリ・ジル=マルシェックスがバッハから近現代に至るピアノ曲を演奏した来日公演に衝撃を受けて音楽家を志すと、小松耕輔、ラウトルップ、ベルクマイスターに師事をしました。1926年に慶應義塾大学文学部予科に入学しフランス語を学びますが、一時、東京高等音楽院(現・国立音楽大学)に籍を移し、また1930年の新興作曲家連盟の創設にも関わりました。1931年慶應義塾大学を中退すると、この年から4年連続でジル=マルシェックスのプログラムに倣ったピアノ独奏会を開催し、ラモー、クープラン、ラヴェル、フランク、サティ、ドビュッシー、プーランク、オネゲル、ダッカン、グーゼンス、セヴェラック、マリピエロ、タンスマンと自作の作品を演奏しました。1933年のタンスマン来日時には、新興作曲家連盟が催した会において面会し、音楽上の示唆を得ました。1935年にアレクサンドル・チェレプニンが来日すると、チェレプニン・エディションからピアノ曲《前奏曲ニ調》が出版され、またチェレプニン賞では《パストラル》が第二位入賞を果たしました。1937年には《パストラル》がミネッティ指揮のサンフランシスコ交響楽団によりアメリカ初演されます。また、来日したワインガルトナーが開催したワインガルトナー賞に《南部民謡集第一集》が入選しました。そのほか《フルートとピアノの為のソナチネ》はケルロイターにより欧州14都市で演奏及び放送されました。戦後には、1951年に《盤渉調越天楽による主題と変奏》がヘルヴェルト・フォン・カラヤンの指揮で演奏されるなど、再び創作活動を活発にするとISCM(国際現代音楽協会)音楽祭で多数入選を続け、2001年に亡くなるまで現代音楽における最新の語法を取り入れながら創作を続けました。
松平は、21歳の1928年に雑誌『音楽新潮』にフランスの音楽学者ポール・ランドルミーの論文を翻訳し「印象主義の衰頽」として発表しました。東京音楽学校に作曲科が開設されるのは1932年を待ち、未だ日本の作曲家によってフランス近代音楽が受容されたとはいえないこの時期に、既にドビュッシー以降のフランス近代音楽の流れを解説した論文を紹介していたことは、驚きに値します。
松平はその後、作曲家としてドビュッシーの音楽語法を受容し、徐々に六人組の語法へと向かっていきました。今回のリサイタルで演奏する初期の歌曲、深尾須磨子詩〈静けき夕〉や《南部民謡集》〈牛追唄第一〉〈山唄〉などは、ドビュッシーの影響下にあるといえます。《南部民謡集第二集》〈甚句踊唄〉では本人がミヨーの影響を受けたと語っているように、六人組の作曲技法の特徴である複調を用いています。複調というのは、同時に二つの調性の和音を重ねる手法で、ランドルミー著「印象主義の衰頽」では、後期ロマン主義までの調性の拡大のさらに先にあるものであると解釈されています。松平はランドルミーの音楽史観に影響を受け、ドビュッシー的な技法の先にある技法として複調を採用するにいたりました。
〈甚句踊唄〉を演奏していて感じる事ですが、私はどことなく感情の置き場所に困るような感覚に陥ることがあります。ロマン主義への反発から生まれたという性格をもつ複調のような尖鋭的な技法からは、私たちが本質的に音楽に求めている、あの人間的な感情が置き去りにされてしまっているような感覚になることがあります。
松平が次に作曲上の指針としたのは、ポーランド人作曲家のアレクサンドル・タンスマン(1897~1986)でした。松平は、タンスマンが来日した1933年と1935年に面会し、作曲上の示唆を得ています。タンスマンは、パリで六人組とも接触し、複調を特徴とする作曲スタイルは彼らと共通します。これは橋本國彦がタンスマンをオマージュして作曲した“Tansmanism”からも見て取ることができます。しかし、彼は六人組と行動を共にすることはなく、むしろ彼らを批判的に評価しています。
先ず作品を示し、それを土台として其の上に新たな美学を建築出来る様にはせずに、いきなり既定の美学を造り出し、それに創造的思考を服従させて、物事の順序を破る事が多かった。それ故、今日の音楽運動の或るものには、意識的に音楽理論家や美学に奉仕して、それ等の著作が予め決定して置いた発展過程を其のまま追ふに過ぎないものがある。
——アレクサンドル・タンスマン著、(G・F訳)「主観的要素と現代音楽」、『音楽新潮』 第12巻3号、東京:音楽新潮発行所、1935年3月、2-6頁
これは、ジャン・コクトーが標榜したスローガンに若い作曲家たちが牽引されていったというフランス六人組の性格を批判したものと読むことができます。さらに、ここでタンスマンは、「主観的=抒情的要素」の復活を呼びかけました。
タンスマンが目指そうとした音楽に影響を受けた松平は、戦後、新作曲派協会の集いで清瀬保二や早坂文雄らと以下のように語り合ってます。
清瀬 殊に今後の世界戦争が済んだ後の芸術の傾向がどういうふうになるかという;ことは大きな問題だと思う。まだそれから數年経った後で作品については傾向付けられていないが、これはいわゆる実験時代ではない。これは大雑把な分け方だけれども、ドビュッシー以降今度の戦争に至る時期を大きな意味で実験時代と称したら、それ以降は一つのヒューマニスティックなものですか。つまりクラシックの精神なり音楽性の軌道に持って、実験的な財産を取捨選択する。そういうところから今度の芸術が発展して行くのじゃないかという気がするのです。
早坂 人間性の復活かなあ。
松平 音楽性の復活だね。
早坂 近代音楽は徒らに個性的になった。排他的になったともいうことがある。例えば絵でいうと、ブラックなんか同輩に巨匠が多いから、どうして自分の個性を出したらいいかということで非常に切り捨てちゃったでしょう。個性的だけれども、非常に小乗的な芸術だ。それは現代芸術の欠陥だと思う。
——「我が國の現代樂の確立について(座談会)新作曲派の指向」、『音楽芸術』 東京:音楽之友社、1950年、9月、27頁。
ドビュッシー以降のフランス近代音楽を受容していた松平の意識は、タンスマンを通じて人間性の復活、音楽性の復活へと向かい。戦後初期の創作へのきっかけを得ていきました。
松平が自身の創作において、そうしたタンスマンの音楽観を最初に体現したのが《古今集》(1939~1945)でした。松平は、タンスマンによる《8つの日本の歌》の音組織に習い、そこに田邊尚雄(たなべひさお)がまとめた笙の和声構造など雅楽の音使いを用いて、和歌と近代音楽の合一試みました。ここには、尖鋭的な近代ヨーロッパ音楽の技法、抒情性=主観性、雅楽の音楽要素が共存しています。
さらに興味深いことに、創作において、松平はジョルジュ・ボノーによるフランス訳詩を用いて作曲しました。ボノーは古典から安部公房までおおくの日本文学を仏訳した日本文学者ですが、彼は和歌の翻訳においては、音節数や母音など、原詩の持つ音声的要素も忠実にするべきとう持論をもっていました。そのため、出版譜は原詩のみが載せられていますが、自然に歌うことができます。
先人、山田耕筰は“Two Legendry Poems of old Japan”などにおいて、日本の文学的素材の英訳に作曲をしていましたが、松平もヨーロッパへの同期意識から仏語和歌への作曲を試みています。
最後に、古今集の和歌の原文をあげ、紹介と代えさせていただきたいと思います。
第1曲《谷風に》
源当純
寛平の御時きさいの宮の歌合わせの歌
谷風に とくる氷の ひまごとに うち出づる浪や 春の初花
第2曲《君ならで》
紀貫之
梅の花を折りて人に贈りける
君ならで 誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る
第3曲《さみだれに》
紀貫之
寛平の御時きさいの宮の歌合わせの歌
五月雨に 物思ひをれば 郭公 夜深く鳴きて いづち行くらむ
第4曲《きちぎりす》
藤原忠房
人のもとにまかれりける夜、きりぎりすの鳴きけるを聞きてよめる
きりぎりす いたくな鳴きそ 秋の夜の 長き思ひは 我ぞまされる
第5曲《雪ふりて》
凡河内躬恒
雪の降れるを見て読よめる
雪降りて 人もかよわぬ 道なれや あとはかもなく 思ひ消ゆらむ
第6曲《秋風に》
壬生忠岑(みぶねのただみね)
題知らず
秋風に かきなす琴の 声にさへ はかなく人の 恋しかるらむ
第7曲《はつかりの》
凡河内躬恒
題知らず
初雁の はつかに声を 聞きしより 中空にのみ 物を思ふかな
第8曲《川の瀬に》
紀貫之
寛平の御時きさいの宮の歌合わせの歌
川の瀬に なびく玉藻の み隠れて 人に知られぬ 恋もするかな