2025年9月18日 木曜日
開場18:30 開演19:00
二子玉川オーキッドミュージックサロン
東京都世田谷区玉川2-2-1 二子玉川ライズB1 (東急田園都市線・大井町線:二子玉川駅徒歩3分)
入場料:¥4,000
出演:田中俊太郎(バリトン)、山口真広(ピアノ)
海–––最初にきこえた音はなんだっただろうか?それは水のなでさする音だった。プルーストは海を「まだ何の生物も存在しなかった頃のごとく、その気も遠くなるような太古の営みをいまだに続けている地球の哀れな母」と呼んでいる。(マリー・シェーファー『世界の調律』より)
《浜辺の歌》(1916)作詞:林古渓 作曲:成田為三
東京音楽学校楽友会が発行する雑誌「音楽」に発表された林古渓の「はまべ」と題した詩が発表された。同詩の発表後、掲載に値する作品がなかなか現れなかったが、ベルリン留学から帰国した山田耕筰は、自宅に住み込みで弟子入りしていた成田為三を紹介し、作曲へと結びついた。古渓は小学校教諭を務めた父の仕事で少年時代を辻堂海岸近くで過ごした。
鐘––世俗の世界は無音ということはなかったにせよ、ともかく静かであった。そして非難の意味ををこめずに、すべての大きな音を「騒音」と呼ぶなら、騒音と聖なるものが結びつくことは容易に理解できる。(マリー・シェーファー『世界の調律』より)
《鐘がなります》(1923) 作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰
山田耕筰はベルリン留学中の1932年にリヒャルト・シュトラウスに傾倒しながら交響詩を作曲し、帰国後は交響楽運動に勤しみつつ、留学中に触れたロシア・バレエや、リトミックの祖であるダルクローズとの交流、また表現主義美術との関わりを背景として独自のジャンルである舞踊詩の作曲を展開した。そんな山田は、自身の舞踊詩の発表を計画しながら1920年に欧米各都市を歴訪したが、そこで見たのは第一次大戦後の西洋の経済、文化の衰退であった。1922年、山田は国内における楽劇創作に大きな希望を持ちながら、北原白秋と共に『詩と音楽』を創刊し、歌曲創作を盛んにしていく。大正モダニズムの混沌とした状況を背景としながら、山田は日本語と音楽の融合を目指した。
教会の鐘は求心的な音である。それは人間と神を結びつけると同様、社会的にはその共同体を引き寄せ、ひとつにまとめる。さらに、過去の時代にあってしばしば悪霊を追い払うのに役だったように、教会の鐘は鐘は遠心的な力をも発揮したのだった。(マリー・シェーファー『世界の調律』より)
《幻想的小品集Op.3-No.2 「鐘」》(1892)セルゲイ・タフマニノフ
セルゲイ・ラフマニノフがモスクワ音楽院作曲科を卒業した1892年に発表された。「鐘」という名称は作曲家本人がつけたわけではなく、鐘の音を模したような特徴的な音を持つこの曲が知れ渡るにつれ愛称として呼ばれたものである。作曲の年、ラフマニノフはわずか19歳であったが、オペラ《アレコ》をボリショイ劇場で成功させ、出版社とも契約するなど、作曲家として門出を切り、《鐘》は熱狂的な人気を博していった。
素朴であっても、音楽に心が開いているものであれば、誰の心にもいやみなく触れることができるものである。(信時潔)
《沙羅》(1936) 作詞:清水重道 作曲:信時潔
東京音楽学校で教鞭をとっていた国文学者の清水重道が作詩し、同じく東京音楽学校で教鞭をとっていた信時潔が1936年に作曲した。全8曲からなる曲集であるが、各曲に物語としての関連性はなく、むしろ七五調の催馬楽から口語自由詩までその詩のスタイルも様々である。信時潔は曲順の配置を遂行したようであるが、発表された曲順に対象関係がある。
第一曲、第八曲:風景と個人との対峙
第二曲、第七曲:物語の主人公として第一人で語られる
第三曲、第六:曲風景を見て今ここにないものを思う
第四曲、第五曲:主観的要素の少ない風景、動物描写
伝統的な詩形と新しい日本語の詩のあり方の問題、また、侘びやさび、滑稽といった日本古来の情感と象徴詩的な表現の問題など、表現の上での美的な問題に心を寄せるとき、《沙羅》を一貫した歌曲集と捉えることができるように思われる。
人間が具有するすべての本能をありのままに出発点に引き戻して、そこから産れた音楽が若し形をなして、この世に現はれたら、どういうことになるでしょう。(江文也)
《五月の組曲》より〈灯下にて〉(1935) 作曲:江文也
バルトークから濃く影響を受けた江文也であったが、調性が希薄でモダニスティックな音響が、揺れ動く灯とそれと対峙する人物の心情を描写している。表現主義的な作風である。
俗謡–––そこに醸しだされる土の匂い–––それは「余りに田舎者」である所かむしろ「より文化的」な魅力を作者は感ずる一人である。(江文也)
《生蕃四歌曲集》より〈子守唄〉(1935) 作曲:江文也
《生蕃四歌曲集》は、台湾の民謡を素材にしながらも歌詞は意味をなさないオノマトペ的なヴォカリーズによって歌われる。半音階的な並行4度、並行5度の進行が言葉を超えた詩想を表現している。
江は、1910年に台湾で生まれ、13歳に内地留学の形で、長野県上田市で過ごした。青年期を過ごした。上京して武蔵高等工学校で学ぶ傍ら、1930年から東京音楽学校選科に在籍して唱歌を専攻し、後に作曲を橋本国彦に指示した。声楽家としては早くも32年には日本蓄音機商会(現日本コロムビア)で山田耕筰作曲《肉団三勇士の歌》をレコード吹き込みをし、第1回、第2回音楽コンクール(現日本音楽コンクール)で入選を果たし、33年にはJOAK放送のワーグナー《タンホイザー》でヴォルフラム役を歌唱し、34年藤原歌劇団第一回公演プッチーニ《ラ・ボエーム》ではショナール役を演じた。また作曲家としては第3回から第6回の音楽コンクールでは作曲部門でも入賞を繰り返し、34年には新興作曲家連盟に加入、36年にはベルリンオリンピック芸術競技で《台湾舞曲》が入選、またアレクサンドル・チェレプニンの薫陶を受け、チェレプニン・コレクションとして《生蕃四歌曲集》を含めた7作品が日本、中国をはじめニューヨーク、ウィーン、パリでも出版された。同時代の多くの作曲家がモダニズムに傾倒していたように、江もバルトークらの影響が見られる民族的な作風から、表現主義的な作風まで時代の空気を存分に吸い、作品に還元していった。
欧州人から見て「芭蕉紀行集」にエイキゾチズムがることは確かであろう。しかし私の最も主なねらいは、短い言葉で言い度い事のエッセンスを表現することであった。(箕作秋吉)
《芭蕉紀行集》(1930-37) 作詞:松尾芭蕉 作曲:箕作秋吉
箕作秋吉は江文也らと共に、新興作曲家連盟において活動した。日本の伝統的な音楽に五度和声を見出し、シェーンベルクの音楽理論と結びつけて独自の五度圏和声論を展開し、《芭蕉紀行集》で実践し、同作のオーケストラ版は第24回国際現代音楽祭で入選した。
波や潮の寄せては返す韻律を正確に理解できるのは、海のオスティナートが産まれてから死ぬまでその耳の中でずっと鳴り響いている海の詩人だけである。(マリー・シェーファー『世界の調律』より)
《短歌連曲三部作》より〈九十九里浜〉(1935)作詞:北見志保子 作曲:平井康三郎
北見志保子は、高知県に生まれ大正末期から昭和20年代まで活躍した女流歌人。故郷で小学校教員を務めていたが、文学を志して上京。同郷の歌人橋田東声と結婚するも東声の門人浜忠次郎と恋仲になり東声と離婚、後に浜と結婚した。平井康三郎の作曲により《短歌連曲三部作》として〈平城山〉、〈甲斐の峡〉、〈九十九里浜〉を発表。特に〈平城山〉が大ヒットする。
鳥の言語や歌については、これまでにも多くの研究がなされてきた。もっともそれぞれの用語の一般的な意味で、鳥が「歌う」のか、それとも「話す」のかについては今日に至ってもまだ多くの議論が交わされている。いずれにせよ、自然の音のなかで鳥の鳴き声ほど人間の想像力に優しく語りかけてくるものはない。(マリー・シェーファー『世界の調律』より)
〈木兎〉(1947) 作詞:三好達治 作曲:中田喜直
三好達治は、大阪陸軍幼年学校に在籍時、後に二・二六事件の首謀者として処刑される西田税と出会い親友となる。2人は陸軍士官学校に進学し、共に皇道派の思想に共感していたが1920年に三好は脱走し、後に東京帝国大学仏文科に進み詩壇を志すこととなった。三好は脱走前夜に西田に「「たとえ、どうならうとも、必ず目的を達成しやう」と語った。目的を達成した西田に対して、三好自身が抱いた感情がこの詩に現れている。


