Songs of Stars⑥ 銀河鉄道999

銀河鉄道999

作詞 奈良橋陽子(英語) 山川啓介(日本語)

作曲 タケカワユキヒデ

編曲 ミッキー吉野

 

1979年にゴダイゴがリリースしたシングル。

ゴダイゴさんの楽曲は、最初に英語の歌詞に曲をつけ、その後に日本語の歌詞をつけるという創作をされているそうで、この楽曲も奈良橋陽子さんの英語歌詞バージョンが原作です。

奈良橋さんは外交官の父を持ち、5歳から16歳までをカナダで過ごしました。女優を目指した奈良橋さんは大学卒業後、ニューヨークの名門俳優養成学校「ネイバーフッド・プレイハウス」で学びます。帰国後は演劇を通じて英語を学ぶ英会話教室を設立されました。渡辺謙さんのほかにも、真田広之さん、桃井かおりさん、役所広司さん、菊地凛子さんと、ハリウッドと日本のパイプ役を果たします。『ラストサムライ』の渡辺謙さんのキャスティングにも関わられました。(トム・クルーズさんには日本語を指導されたそうです)

そうした奈良橋さんは、1970年代、デビュー前のタケカワユキヒデさんの書いた英語を直すところからはじまり、やがて英語の歌詞をいちから手掛けるようになったそうです。

ゴダイゴのメンバーのタケカワユキヒデさんの母方の大叔父様にスズキ・メソードで有名な鈴木鎮一さん、父にベートヴェン研究家の武川寛海さんを持つ音楽一家に生まれ、東京外国語大学の英米語学科を卒業されたそうです。また、バークレー音楽院を卒業されたミッキー吉野さんはじめ他のメンバーの方々も日本と欧米の文化をつなぐ方々ばかりです。

作詞家、楽曲、ミュージシャンを通じて英語圏の文化が翻訳され、まったく新しいJ-Popを生産していく。そのようなワクワク感がゴダイゴの楽曲にはあるのだと思います。

Songs of Stars⑤ Lost in the Stars

Lost in the stars

原作 Alan Paton(アラン・ペイトン)

台本 Maxwell Anderson (マクスウェル・アンダーソン)

作曲 Kurt Weill(クルト・ヴァイル)

 

1949年に発表されたミュージカル《Lost in the stars》の中の一曲。

【あらすじ】

舞台は南アフリカ。

片田舎ドチェニ村の黒人牧師スティーブン・クマロは、ヨハネスブルクで消息不明になったしまった息子アブサロムと、娼婦に落ちてしまった妹のガートルードに会いに一人汽車でヨハネスブルクへ向います。道中、停車場でドチェニ村の白人大農園主ジェイムス・ジャービスと、ヨハネスブルクで黒人の権利を守る進歩的な立場をとっている息子のアーサー・ジャーヴィスに出会うのですが、クマロに対して親しげに挨拶する息子アーサーを見て、人種的偏見をもつジェイムスは不快感を露わにします。

ヨハネスブルクに着いたクマロは妹ガートルードの息子を引きとりはするものの、息子アブサロムを見つけることはできずに帰途に就きます。

 

場面変わって、ヨハネスブルクの裏町の地下酒場。

クマロの息子アブサロムと仲間たちは強盗の相談の結果、皮肉にも黒人の権利保護の立場をとる弁護士アーサー・シャーヴィスに目を付けます。アブサロムはアーサーを射殺し、投獄されてしまいます。

この曲《Lost in the stars》は、殺人を犯した息子アブサロムを牢獄にみつけたクマロ牧師の歌。

死刑判決を受けたアブサロムに恩赦が下る希望を託し、クマロは農場主ジェイムスを訪ねますが、正義の報いだとして拒否されます。スティーブンは、死刑判決を受けた息子の恋人イリーナを訪ね、死ぬ前に息子アブサロムと結婚することに同意させ、自らは息子の事件のために聖職を離れると決意します。

アブサロムが処刑される夜、クマロの決意をみて少しずつ心を動かされていたシャーヴィスは処刑される息子を思って苦しむクマロを慰めるために訪れ、ふたりの人種的な垣根を超えた和解の握手によって幕が下ります。

 

 

ヴァイルはこの作品を「ミュージカル悲劇」と位置けました。アラン・ペイトンの原作ではこの作品のような和解はないのですが、ここでは救いを以て劇が締められます。

原作者、アラン・ペイトン(1903~1988)は南アフリカのディエクルーフ感化院の院長をつとめ、犯罪をおかしたアフリカ少年たちのために働きました。そこで改革を行い、厳しい刑務所のような施設を温かい学校へと変貌させました。彼の著作に聖フランチェスコの祈りを解説したものがあります。

憎しみのあるところに愛を

絶望のあるところに希望を

闇のおおうところに光を

そうしたメッセージがこのナンバーにも込められているように思います。

Songs of Stars ④千の風になって

千の風になって

原詩 Do not stand at my grave and weep

訳詞・作曲 新井満

 

新井満さんは、作家、映像プロデューサー、歌手、作曲家と実にたくさんの才能を持った方で、電通に入社し環境映像の制作をする傍ら、文筆活動も行い、『尋ね人の時間』では芥川賞を受賞されています。

この曲が作られたのは、新井さんの故郷新潟のご友人が奥様をなくされたことがきっかけ。残されたご友人と子供たちのことを思うと通り一辺倒の言葉はかけられないと、黙ってうなだれるしかなかったところ、追悼文集の中に英語の原詩を発見し、これを自分流に訳してみよう、なおかつ翻訳した詩にメロディをつけたらどんなふうになるだろうと思い創作されました。少しでもご遺族の慰めになれば…。そうしてプライベートプレスを30枚ほど作ったのがきっかけなのだそうです。朝日新聞の「天声人語」に掲載されたのを機に、全国的に広がっていきました。

 

JR福知山線の脱線事故の追悼の際にもこの歌を流されたそうです。

「讃美歌をかけるとキリスト教徒の方は歓迎しても、他の宗派の方は「ちょっと」と言い、声明をかけるとまたほかの方は「ちょっと」と言う。結局「千の風になって」をかけたら皆さん納得した」といいます。

その理由を新井さんはこの詞のもつ「アニミズム」いあるといいます。どんなものにも、どんな生き物にも、あるいはどういう自然現象にもいのちが宿っている、という考えがアニミズムです。私たち日本人の言葉にとても素直に入ってくる魅力がこの歌にはあると思います。

 

所説ありますが、元の英語歌詞です↓

Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am in a thousand winds that blow,
I am the softly falling snow.
I am the gentle showers of rain,
I am the fields of ripening grain.
I am in the morning hush,
I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight,
I am the starshine of the night.
I am in the flowers that bloom,
I am in a quiet room.
I am in the birds that sing,
I am in each lovely thing.
Do not stand at my grave and cry,
I am not there. I do not die.

Songs of Stars ③上を向いて歩こう

上を向いて歩こう

作詞 永六輔

作曲 中村八大

今から約60年前。1961年(昭和36年)、永六輔さん28歳の時に作られた歌です。この作品は以来2011年の東日本大震災の時にも被災地をはじめ、数多くの場所で歌われ、人々を勇気づけてきました。私自身もこの作品が物心ついたころから耳にし、学校でも何度となく歌ってきました。こんなにたくさんの人に歌われ、愛されている作品ですから、作詞の永六輔さんは落ち込んでいた人を勇気づけ慰める作品を作ろうという思いで名曲が出来上がったのだとばかり思っていました。

1961年というと59年、60年と続いたも安保闘争も日米安全保障条約の自然成立に終わった翌年。背景には先日ご紹介した「やつらの足音のバラード」に通じる、東西冷戦という世界的な流れの中にあったと思います。運動に参加した一人ひとりの心を覗くと空っぽにってしまうような時間でもあったのではないでしょうか。

そんな時代を永六輔さんも経験しました。永さんはこの年代に名作を立て続けに残しています。

「黒い花びら」       1959年7月 作曲・中村八大、歌・水原弘

「遠くへ行きたい」     1962年7月 作曲・中村八大、歌・ジェリー藤尾

「上を向いて歩こう」    1961年10月 作曲・中村八大、歌・坂本九

「見上げてごらん夜の星を」 1960年7月 作曲・いずみたく、歌・坂本九

安保闘争で東大生の樺美智子さんが亡くなったころに「黒いはなびら」が作られました。また永さん自身もデモに参加したことでテレビの仕事をやめなければならなくなり、また世の中はこのままではどうにもならないだろうという焦燥感から生まれたのが「遠くへ行きたい」でした。そして同じように挫折感から生まれた歌が「上を向いて歩こう」であり、「見上げてごらん夜の星を」とつながっていったのだそうです。

永さん自身、「上を向いて歩こう」について、以下のように語っています。

 

「『上を向いて歩こう』が歌われることに、作詞者の僕は正直いってとまどいを感じていました。この詞は、励ましの詞じゃないんです。前年の1960年(昭和35年)、60年安保で僕が感じた挫折を歌ったものですから、もともとはげましの歌じゃない。どちらかというと泣き虫の歌であって、その歌を歌って励まされた気分になるのは間違いじゃないかと思って」

 

この歌は永さん自身の、挫折の歌、泣き虫の歌。誰かを励まそうして作ったわけではなく、永さん自身も60年代安保の時代を強い信念をもって生き抜いた証ともいえる歌でした。

 

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永さんの著作『上を向いて歩こう 年をとると面白い』(株式会社さくら舎)は永さん独自の視点から日本人のわたしたちにとっての歌って何だろうという疑問を解き明かしてくれるようなとても魅力的な著作です。

 

Songs of Stars②「やつらの足音のバラード」

SiriuSセカンドアルバム「星めぐりの歌」、12月23日の発売をひかえ、収録曲について僕なりに調べたり、勉強してみたことを徒然に書かせていただく「Songs of Stars」。

 

やつらの足音のバラード

作詞 園山俊二

作曲 かまやつひろし

園山俊二氏(1935~1993)は島根県松江市に生まれ、少年時代は松江城のお濠でよく遊び、図画の時間にはトンボやカブトムシをよく描いていたそうです。県立松江高校(田中の出身校)を卒業後状況して漫画家の道を歩みます。「やつらの足音のバラード」はそんな彼の作品「はじめ人間ギャートルズ」のエンディングテーマとして歌われました。

「ギャートルズ」の連載が週刊サンデーで始まったのが1965年。この連載のきっかけになったのは東西冷戦をテーマにした1962年の作品「国境の二人」でした。国境を守る違う国の二人の兵士をユーモラスに描いたこの作品。園山氏は以下のように語ります。

「人間の理想というものを歴史的に考えるならば、やはり世界は一つになるべきものだと思います。ただ、その際、どのような形態になる方が良いかということになると、いまの私にはよくわかりません。とにかく、現在の状態が正常なものではないということだけあ確かなことです。そこで、この異常な状態をテーマにして、お送りしましたような作品を書いてみました。」

鉄条網を挟んで、二人の兵士は原始人のような恰好をして、石斧を以て大笑いする絵で終わります。

音楽創作の歴史を顧みると1960年代はジョン・ケージをはじめとして実験音楽、前衛音楽の創作がなされ、そうした創作をした邦人作曲家たちも様々なやり方で新しい創作語法を模索した時代でした。20世紀初頭以降、ロマン派音楽を否定するかのように生まれた様々な音楽の「主義」の多様性もここにきて火花のように広がっていきます。

ジョン・ケージは禅にも興味を持ち、無音というものに着目しました。彼の有名な「4分33秒」は、演奏者が舞台上で何も音を発さない行為と、その空間に鳴り響く「音」を作品としてとらえる作品。まさに音と無について考えさせられます。

 

「なんにもない、なんにもない、まったくなんにもない」——無

 

園山氏の意識の中にあったか、定かではありませんが、混迷する世の中にたいして、国境も政治問題もなんにもない世界をユートピアとする園山氏の理想が込められてるのかもしれません。

Songs of Stars ①宮沢賢治「星めぐりの歌」

SiriuSセカンドアルバム「星めぐりの歌」、12月23日の発売をひかえ、収録曲について僕なりに調べたり、勉強してみたことを徒然に書かせていただく「Songs of Stars」。第一弾はアルバムタイトルでもある宮沢賢治「星めぐりの歌」です。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

小学校の教科書でも取り扱われる宮沢賢治(1896~1933)の「雨ニモマケズ」。一度は暗記したことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか?

宮沢賢治の創作の背景にあるのは法華経の精神と農民的な生活風景。この「雨ニモマケズ」の手稿には「南無上行菩薩 南無多宝如来 南無妙法蓮華経」など菩薩や如来や法華経の名が連ねられています。

この「雨ニモマケズ」はクリスチャンである斎藤宗次郎がモデルになっているといわれています。当時、クリスチャンは迫害を受けており、彼の娘は迫害の末死んでしまいました。それでも斎藤氏はくじけることなく神に祈り続け、雨の日も風の日も雪の日も休むことなく町の人のために祈り、働き続けたそうです。

賢治の作品全体に通じる、自己犠牲の精神。

それは「星めぐりの歌」にも共通するテーマです。

部類の音楽好きだった宮沢賢治。自らレコードコンサートを開いたり、上京のおりには新響(現・NHK交響楽団)のチェリストにレッスンを受けたり、また自身の文学作品の中にもたくさんの音楽がちりばめられています。5年間教員を務めた花巻農学校時代には自作の音楽を学校演劇で用いたり生徒にうたわせる歌曲も残しています。この星めぐりの歌は盛岡高等農林学校卒業直後に書かれた賢治の処女作ともいわれる童話「双子の星」に収めた詩に曲付けしたものです。

夏の天の川の西に小さな水晶のお宮があり、そこに住むチュンセ童子とポウセ童子の二人の星。彼らのお役目は、二人仲良く「ほしめぐりの歌」に合わせて一晩中銀笛(フルート)を吹くこと。

ある夜、白鳥座とさそり座が喧嘩をはじめてしまいます。天体には不穏な空気。二人は、身を挺してさそり座と白鳥座の喧嘩を仲裁します。

天体に平和が訪れると、そこには「ほしめぐりの歌」が鳴り響き、二人の童子は銀笛を奏でます。

では、この星めぐりの歌はだれが歌っているのでしょう?

もともと、ハーモニーという言葉の語源はギリシア神話の女神ハルモニアに由来し、事物の調和を意味します。この「双子の星」においても、チュンセ童子とポウセ童子の二人の星は大鳥の星とさそりの星の喧嘩を仲裁します。二人の懸命な仲裁によって天上に「ほしめぐりの歌」が響き渡り、それにあわせて銀笛を吹くことができるようになるのです。

天体の調和、世界の調和…それ自体が「ほしめぐりの歌」なのかもしれません。

 

 

2021.2.13 KHC第3回演奏会 J.S.Bach「ヨハネ受難曲」

2021年2月13日、 KHC第3回演奏会 J.S.Bach「ヨハネ受難曲」にピラト、バスアリアで出演させていただきます。

昨年、延期になった演奏会で、今回は無料での開催という運びとなりました。

川口リリア音楽ホール(全席自由・無料)

2021.2.13(土)14:00(13:30開場)

チケットご希望の方がいらっしゃいましたら、当ホームページのお問合せフォームからのご連絡で先着10名様に私の方からチケットをご用意させていただくことができます。

このような時代にイエスの受難の物語から何を得ることができるのか、じっくりと考えながら備して参りたいと思います。

YouTubeチャンネル開設

少し前にYouTubeチャンネルを開設しました。

ゆくゆくは音楽にまつわるコンテンツを作りたいなぁと思っているのですが、まだ機材も技術も伴っていないため、ひとまず簡単なお散歩動画を作りつつ、動画制作の勉強をしていこうと思います。

動画撮影には色々とルールもあり、YouTubeは他のSNSより少し難しそう…..。ただでさえSNS音痴な私ですが、チャンネル登録、お手柔らかなコメント、アドバイスよろしくお願い致します!!!

母校の小学校に行ってみた↓↓↓

秋のお散歩↓↓↓

『エール』の時代の作曲家たち⑥ 松平頼則と《南部民謡集》

『エール』の時代の若手作曲家たちは、ヨーロッパの新古典主義に呼応して自分たちにとっての「古典」とは何かを追い求めていきました。

松平頼則(まつだいら よりつね)は初期においては民謡に、そしてある時期から雅楽に自らの「古典」を見出し、創作の素材にしていきます。そんな松平が東北民謡に素材を求めた《南部民謡集》をご紹介したいと思います。

松平頼則(1907~2001)は東京小石川に常陸府中藩の流れをくむ松平頼孝(よりなり)子爵と、明治天皇の侍従長を務めた侯爵徳大寺実則(とくだいじさねつね)の四女治子(はるこ)の長男として生まれました。

父頼孝は宮内省の狩猟官に任ぜられ、聴講生として東京帝国大学理科大学動物学科で学び、日本鳥類学会の設立時に評議員としても名を連ねました。頼孝は小石川の邸宅内に鳥類研究のための標本館を建て、図鑑制作のために生物画家小林重三(こばやし しげかず)を雇いました。

小林は日本三大鳥類図鑑と称される3つの図鑑を残しています。内気な松平頼則少年は、小林の「デッサンは、とても大切なんですよ」と話す仕事に興味を示し、小林の絵がデッサンから色づき、やがて作品へと変わっていく様を非常に楽しみにしていました。後に松平は、それが「作曲生活と密接に意識的に繋がっているのじゃないか」とも話しています。

生物画家が生物を見る眼差し——その緻密で性格な素材へのまなざしは、後に松平が日本の「古典」の素材を見出し観察し、作品化していくその態度の中に現れていきます。

当時からフランス語教育が盛んであった暁星中学を卒業した松平は、慶応大学仏文科に進学しました。その時期に来日し、同時代の多くの作曲家に影響を与えることになる演奏会シリーズがありました。

フランス人ピアニスト、アンリ・ジル=マルシェックス。

帝国ホテルでの連続演奏会において、彼は1500年代の楽曲から、バッハなどバロック時代、モーツァルト、ベートーヴェンなどの古典派時代、ショパン、シューマンなどのロマン派時代、そしてストラヴィンスキーやフランス六人組などの現代音楽まで、計39名、93曲の作品を演奏しました。ヨーロッパの一流演奏家によるこうした通史的な演奏会は、多くの日本人に衝撃を与え、日本人作曲家にとっての歴史的立場を批判的に意識させるきっかけともなりました。

松平はこうした刺激もあり、慶応仏文科に一旦は入学しましたが、東京高等音楽院(現 国立音楽大学)に通うなど、音楽への情熱を燃やし始めます。1931年のジル=マルシェックス2回目の来日の際には直接レッスンを受けるほどでした。

松平はこの時期、パリ音楽院に留学経験のある小松耕輔や東京音楽学校に招聘されいたハインリヒ・ヴェルクマイスターやチャールズ・ラウトルップなど、当時日本で考えられる一流の指導者たちの薫陶を受けました。

音楽家として歩み始めたこの時期の松平の特筆すべき功績として、翻訳家としての活動があげられます。

暁星中学、慶応仏文科と進んだ松平はその語学力を生かし、海外の最新の音楽論文を翻訳し、『音楽新潮』等の雑誌で紹介していきます。1929年には同紙上にフランス人音楽学者・批評家のポール・ランドルミー著“Le déclin de l’impressionisme ”を翻訳し、「印象主義の衰頽」として紹介しました。ランドルミーは独自の音楽史観のもとドビュッシーを過去のものと批判し、新たな創作に乗り出そうとするフランス六人組の技法を紹介しました。この中で、ランドルミーは六人組の最も特徴的な技法を、ポリトナリテ(複調:同時に2つの調を重ねて奏でる作曲技法)にあると説いています。

ランドルミーのこの論文は1930年代の松平の作曲の指針となりました。

この翻訳当時は、日本人作曲家たちは日本にドビュッシーの音楽から影響を受けて間もない頃でした。そうした時期において、松平が翻訳したこの論文の先進性はいかほどのものだったでしょうか。むしろ、ほとんどの音楽家はその内容を理解することは難しかったかもしれません。

松平のこうしたヨーロッパ最新事情へのアンテナの鋭さは、戦後、彼が現代音楽作曲家として世界的な活躍をしていく上でも欠かせない要素だと思われます。

そんな最中、松平が最初に出会った「古典」。それは南部民謡でした。

松平は、民謡研究者、武田忠一郎が採譜した東北民謡の音符にピアノ伴奏を付加する形で《南部民謡集第一集》(1928-37)、《南部民謡集第二集》(1938)の二つの曲集を発表しました。

第一集はチェレプニン・コレクションとして海外でも出版された経歴を持ちます。また作曲年代も広いことから松平の作曲スタイルの変遷をたどることができる曲集といえます。

《南部民謡集第一集》は〈牛追唄第1〉〈子守唄〉〈牛追唄第2〉〈田植唄〉〈刈上げ唄〉〈ソンデコ〉〈盆踊り〉の7つの作品からなる歌曲集です。

第1曲《牛追唄第一》、ドビュッシーからの影響がみられ、松平自身も冒頭でみられる増4度音程を「ドビュッシーの花粉にまみれていた私にとって自然な選択だった」と語っています。続く第2曲〈牛追唄第二〉もドビュッシー的な色合いの強い音がちりばめられています。

第5曲〈刈上げ唄〉、第6曲〈ソンデコ〉は、松平が自身の著作『近代和声学』の中で、ダリウス・ミヨー(フランス六人組の一人)の書法として解説している半音階的な技法が駆使されています。

第7曲〈ソンデコ〉では、ピアノ伴奏の右手は黒鍵のみ、左手は白鍵のみの音による典型的なポリトナリテ(複調)の書法が用いられています。

同時代の他の多くの作曲家同様、ドビュッシーの影響を受けていた松平が、ランドルミーからの影響のもとフランス六人組の書法に近づき、ついには彼らの特徴でもあるポリトナリテの技法を獲得するに至る過程をたどることができます。

ポリトナリテは異なる調の和音を同時に奏でるわけですから、耳に心地よいハーモニーから遠ざかり不協和音を生み出す技法であるとも言えます。私自身、そうした音楽は、ハーモニーの厚み、温かみから遠ざかり、無機質で冷たい音楽であるなと感じることがありす。

《南部民謡第一集》創作にあたり、フランス六人組からの影響下にあった松平は、そのような音を追い求めていきました。

武田忠一郎が丁寧に採譜した土着の民謡を、フランス近代の実験的な音響の中に料理する松平。

一見、不協和を感じるこの組み合わせですが、私には人々の生活や汗の染み込んだ民謡を、クールな知性をもって1930年代の都会的に洗練された感性の中で再定義しようと試みる松平の姿が感じられます。

COMME des GARCONSの川久保玲さんのパワーと反骨精神と同等の、何かを変革しようとする人間のエネルギーをめりめりと感じます。

しかしこの後、ポーランド人作曲家、アレクサンドル・タンスマンです。との出会いにより、無機質で冷たい音響から、抒情的で温かい音響を求めるようになります。

『エール』の時代の作曲家たち⑤ 新古典主義と清瀬保二

『エール』を通じて戦争の悲惨さ、それが人々に与えた影響を改めて感じています。戦時中は日本音楽文化協会を通じて、音楽家たちの表現も時局の流れに沿うこと余儀なくされます。

戦争と作曲

音楽の創作史においても、第二次世界大戦の影響は絶大でした。1920年代以降、音楽系雑誌メディアが充実し、海外の音楽事情にリアルタイムに近いスピードで接することができていたのですが、戦争を機にそうした情報が遮断されます。それ以前はイギリス、アメリカの現代音楽やジャズ音楽の情報も盛んに入ってきていたですが、それが敵国音楽となってしまいました。戦後、そうした情報が復活するのは日本が主権を回復する1952年を待たなければなりませんでした。1940年頃~1952年まで、実に12年にも渡って、作曲家たちは海外とのつながりを絶たれたのです。

パワーと反骨精神の日本の作曲家たちは戦後、すぐに創作の場を作ろうと自ら新たなグループを作ります。新声会、新作曲派協会、地人会…。それらの場所は、古関裕而と同じく戦争を体験した作曲家たちの新たな創作への礎であると同時に、次の世代の作曲家の誕生を担う場でもありました。

主権回復後、日本の現代音楽の代表的な作曲家に一人に武満徹(たけみつ とおる)をあげることができます。彼は、清瀬保二が開催した新作曲派協会の第7回作品発表会で《ピアノのための2つのレント》を発表し、作曲家デビューを果たします。民族主義的と評されることの多い新作曲派協会ですが、彼らが戦前より傾倒していた思潮に新古典主義があります。

新古典主義について

歴史をたどってみると、一つの価値観のもとで社会が継続され醸成しつくすと、それ以前の価値観に立ち戻ろうという思潮が生まれる傾向があるようです。ヨーロッパの歴史の中で代表的ものは中世からルネサンスへの移行があります。

フランク王国以降の中世ヨーロッパ社会では、教会(主にカトリック)が重要な役割を持ち、政治にも人々の生活にも欠かすことのできない存在となっていきました。しかし、ペストの流行や十字軍遠征の失敗、ローマの聖ピエトロ大聖堂の建築という問題を抱えたローマ教皇庁は、免罪符(カトリック教会が発行した、罪の許しを表す証明書)の販売するようになります。そのようなカトリック教会に対して、マルティン・ルターらが異議を唱えプロテスタントが生まれたことは有名です。

こうしたことを背景に、人々はいかに生きるかを強く意識しはじめるようになりました。

そこでやってきたのがルネサンス(再生)の時代です。ギリシア・ローマの時代にこそ人間性が肯定されていた理想の時代であるという考えのもと、古代ギリシア・ローマの学問、知識の復興を目指す文化運動がイタリアで興り、ヨーロッパ広がっていきました。

神中心の世界から人間中心の世界へと動き始めた瞬間です。

これとよく似た状況が20世紀ヨーロッパ音楽にも生じました。バロック時代に生まれたハーモニーの原理は、古典時代、ロマン時代を通じて徐々に複雑に展開されるようになっていきました。そうした続きを読む →